ある麻薬の話

実は6月一杯、入院していたのだった。肺の中であやつが再発してしまったので、5月末に手術をしたのである。

というわけで、左肺を半分ほど取った。胸もがばっと開き、術中に喘息を起こす(まあ全麻で意識はなかったからわからないんですけど)など、けっこう大変だった。まあ、それだけならいいのだが、なんと術後に術創が感染してしまい、がーっと高熱発生。そいつが耐性菌であることが判明し、と踏んだりけったりだったのだ。抗生物質で菌を叩き潰すまで退院不可。今回、肋骨の一部を切除して、そこをゴアテックスでつないだので、そこに菌が居ついたりしたら、抗生物質も効かず大変なことになる。

というわけで、原稿の最終チェックをしたのが術後4日め。病院のベッドの上だった。

ぼくが入院していた病院は、ネットがつなげない場所だった。だから、22日に自分が書いたものが出ても、世間でどう受け止められているのかは知りようがない。というのは別にしても、ネットにつなげないというのはものすごい苦痛だった。携帯はmixiにつなげるものの(古い機種なので、携帯用にカスタマイズされた、ほどほどの容量のページしか観れないのです)病院内ではつかっていい場所は限られている。

自分がこれほどネットに中毒しているとは自覚していなかった。朝自宅でアクセスし、会社では仕事そのものがwebで、帰ってきてまたつなぐ。電車の中で携帯を覗き込んでいる人々や、常時メールでつながっている女子高生とそう変わらない。スターリングの「ネットの中の島々」で、電波遮断区画に入りネットから一時的に切られた主人公が不安をおぼえる場面があるけれど、そんな不安を80年代に書いていたスターリングって、やっぱりすごい。

webには確かに、ある種の中毒性がある。麻薬のような、というとき、それは主にアディクションを指した比喩に留まることが多いけれど、告白すると、そう、ぼくはmixiに携帯でつないでいるあいだ、確かに不安を幾分か忘れられた。コミュニケーションには人の脳を恍惚に置く何かが確かにある。肺をいくらか取り去り、いつ転移があるとも限らない(今回のは、前回の場所の再発で、転移ではなかったのだけれど)。つまりは次々狭まっていく選択肢を見せ付けられて、死の影におびえていたぼくだけれど、携帯でつながっているときは、その不安がいくらか和らいでいたような気がする。目の前の問題から、目をそらすことができていた気がする。

生き死にが問題であるとき、現実逃避するのが悪いことかというとそうでもない。ただ、生き死にが問題の場合厄介なのは、現実が重過ぎて目をそらすことが非常に困難だということだ。そのような局面に陥ったとき、人はむしろ現実しか見えなくなってしまうところが問題なのだ。だからこそ、宗教というものに目覚める人も多い。宗教のように強力なコンテンツでなければ、死からの逃避は難しいからだ。

つまり、宗教に向かうことのできないぼくにとって、webは宗教と同じくらい強力なツールだった、ということだ(そのときはね)。webを介してつながっていることには、死の不安を和らげてしまうくらい強力な麻薬成分が潜んでいる。精神的モルヒネとでも言えばいいのだろうか。

オチとしては、退院してから観たsoftbankからの請求書がものすごいことになっていた、と。パケ放題のプランに変更すべきだった。