容赦ない、荒々しい存在としての映画

ガンコン」という自主映画コンテストがある。月刊GUNという銃オタ(の中でも割と実銃思考というどマイナーな方向性の)雑誌でやっている、劇中に銃が用いられていれば何でもオッケーという作品を募集するコンテストで、まあアクション物が多かったりする。審査員には押井守の名前もあって、毎年秋にロフトプラスワンでやる授賞式にはちゃんときて講評をしゃべったりする。それが割と充実したしゃべりなので、ミーハーな押井ファンの僕は出品者でもないのにその授賞式に行って、押井さんの講評を聴く。

なんか前置きが長くなりましたが、去年だったか、ある作品のあるカットに対して、押井さんはこう言ったのだった。

「あれはカットを割るべきです。虚構なんだから」

それがどういうカットかというと、レプリカントがものすごい跳躍をワンカットでする、というのを真横から捉えた映像で、CGを使って実現していた。ぼくは結構、おおっ、となったのだけれども、押井さんはそれを割るべきだと言った。まあ、自主映画レベルのCGでやるべきカットじゃない、とか、アングルがよくない、とかそういうことを言いたかったのかもしれない。かだ、ぼくはその「虚構なんだから」カットを割るべきだ、という言葉が妙に引っかかったのだった。

さて、この話に対置させたいのは、勘のいい人はわかると思うけれど、もちろん黒沢清で、このひとは実にさまざまなカットをワンカットで映し出してきた。いちばん分かりやすいのは「回路」の飛び降り自殺ワンカットかな。あと、この人は撃つ側と撃たれる側を大体割らずに同一フレームに収める(まあ、このへん「シンドラーのリスト」の影響が濃厚ですが)。「黒沢清の映画術」では、映画監督の仕事とはカットの頭とお尻を決めることでしかなく、ここはワンカットでいく、どんなに困難であろうとそうと決めたらそれをワンカットで断固としてやりとおす、そのカットを決めるのが映画監督の存在意義だとまで言っている。予算がないときは人を殴るためにダンボールを廊下にこれ見よがしにおいていた。消火器で役者を殴ったら本当にやばいことになってしまい、そうするとカットを割らなくてはならない。カットを割るということは、黒沢さんにとっては「嘘」なのだ。映画が「虚構である」こととは微妙に異なる意味で、許しがたい嘘なのだ。だから黒沢さんは人を殴れるダンボールを用いることにしたのだ。もちろん「回路」の飛び降りがCGだったことからもわかるように、黒沢さんは虚構を否定しているわけではない。この人が映画の重要な機能と考えているものは、「確かにそれが起こったことを観客に目撃させる」ことなのだ。

イノセンス」を恋愛映画だと言う押井さんはかなりどうかと思うけれど、最近の押井さんは自分でこの歳になって色気づいてきたと小学生みたいなことをのたまい、女優を撮るということはつまり、ありったけの照明を集めて、その女優が一番美しくみえるアングルを探り、醜く見えるアングルを徹底して避けることだと言う。自主だろうが商業だろうが、どんな規模の劇映画であれ、だ。女優を撮るということはそういうことだ、と。

一方、黒沢さんは気持ちいいくらいに正反対のことを前述の書籍で喋っている。「ワンカットでそれが起こったという確実性、はっと胸を打つ生々しさの力は、映画のテクニックとして女優を美しく見せることと全く折り合わないんです」と。女優の演出について作家性を全く見出していない、とまで言っているのだ。

「実写」映画監督としての押井と黒沢清を並べる無茶については、まあみなさんも(ぼくも)いろいろ言いたいことはあるでしょうが、そこはこの話にとっては重要じゃなく、つまり「映画とは何か」という非常に漠然として思考した割にはあまり得るところのない問題について、非常に面白い好対照を成すふたつの見方を紹介したかっただけです。

注意してほしいのは、この話は現実と虚構の境界線みたいな話じゃないということ。「工場の入り口」だって「シオタ駅の到着」だってリュミエールはきちんと演出しているし、そもそもワンカット長回しなんてカットを割る以上に撮影が大変な、要するに精密な段取りの塊である場合が多い。あれやってから、これやって、そのタイミングであれが出てきて、というふうに。「宇宙戦争」の名シーン、高速を走る車の周りを延々とカメラがなめて廻りながらトム・クルーズ一家の会話を映す場面なんか、場面としてはなんでもないにもかかわらず、すごいCGI技術が投入されている。

きょう、ぼくはある映画を見た。「トゥモロー・ワールド」という東宝東和的邦題がつけられてしまった"Children of Men"という映画だ。この"Children of Men"とはパトレイバーファンご存知、「エホバ降臨(くだ)りてかの人衆(ひとびと)の建つる邑(まち)と塔をとを観たまへり。いざ我ら降り彼処(かしこ)にて彼らの言葉を乱し、互いに言葉を通ずることを得ざらしめん。このゆえにその名はバベルと呼ばる」の「かの人衆(ひとびと)」のこと。

この映画は多く長回しが出てくる。撮影監督はエマニュエル・ルベツキで、同じくこの人が撮影監督だった「ジョー・ブラックをよろしく」では、ブラピがワンカットでものすごい勢いで轢かれる、なんてこともやっている。さまざまなカットがシンプルに処理されているので、映画としてのたたずまいは、とてもビッグ・バジェットの映画には見えない。クライヴ・オーウェンが泣き出す場面なんか、普通の映画だったらアップにして寄ってもいいようなところを、ワンカットでかれは泣き出して、ワンカットで泣き止む。この映画はそういう説明的なカット割を排し、叙情ではなく叙事に身を寄せる。

余談だが、上記のような発言をしていた押井さんは、ガンマニアであんな映画ばっか撮っているにもかかわらず、血が大っ嫌いだそうだ(「ケルベロス」のコメンタリーでそう言っている)。それは押井さんがロゴスの人(理屈っぽい人、と身も蓋もなく言わないように)であることも関係しているのだろう。「アニメ」の映画監督であることも重要なのだろう。押井さんにとって映画の虚構性とは、記号の表象性に近いものがある。生々しい表現を積極的に避け、あくまで表象として表面に滞留する押井さんの映画。それは映画「体験」というよりは、映画「観察」に近いものだ。生々しい表現がいかに暴力的(人の思考に容赦なく影響を及ぼしてしまう、という意味で)であり、ワンカットが虚構であるにも関わらず持ってしまう「それは起こった」という「立ち会い」の感覚、レザーフェイスが鉄扉を閉めたとき観客の背筋に走る冷たいあの匂い、をある種のファシズムだと考えているんじゃなかろうか。だから、それはある意味押井さんの「倫理」であると言うこともできるだろう。押井さんは「体験させる」ことよりも「思考させる」という方法を選んだのだ(俳優の身体を「「ぶった切る」、顔のアップという表現がその初期には俳優の反対にあっていた事を、かつて押井さんは語ったことがある)。

しかし、その「容赦なく起こってしまう場に立ち会う」こそがまさに映画という媒体の持つ力なのではないか、と考える人もいる。それが起こってしまったということを見るために、映画館に行くのだという人がいる。アンゲロプロスとか、スピルバーグとか、ハネケとか、まあ名前を挙げればきりがない。キューブリックもまあ、そうだろうな。ペキンパーはたぶん違うし。

アルフォンソ・キュアロンは今回、この映画を「容赦なく」立ち会う装置として構築した。それは擬似ドキュメンタリータッチの手持ちカメラとは全く異なる有様だ。たとえばドグマなんかは、ばしばしジャンプカットを使いまくって時間を「抜く」。同一場面の中で、ガシガシ抜いてゆく。そうすることで、我々がスクリーンで見たカットは、そこに失われた時間の存在を示すアリバイになってしまう。何事かが起こったかのように見せながら、我々は「編集」された場面を見せ付けられている。そこに生起する感情は「ドキュメンタリーっぽい」映像という印象でしかない。言うまでもなく、ドキュメンタリーは「臨場」とは関係がない。

それはテクニックの上だけ、撮影技法の話だけではない。見た人は分かるけれど、ある登場人物の運命などがその典型だ。この映画において、ある登場人物、観客が重要だと思っていた人物が割と序盤でものすごいことになる。それこそズバコーンてな勢いで。この場面もまたものすごい長回しであるうえに気の狂いそうな段取りの集合体なのだけれども、それがワンカット内で展開するために、観客はそれに「付き合う」はめになってしまうのだ。そうした中で、それは起こり、呆然とする我々をカメラはカットの終わりまで連れてゆく。どこでそのカットが終わるのかは、こうなるともう製作者しかわからない。われわれはいつも、このカットはほどなく終わることを無意識に知っていて映画を見ているのだから、これはかなりダメージがでかい。え、この映画ってじゃあ嫌がらせですか。まあそういえないこともない。

そして、物語はといえばある種のロードムービーなのだけれども、なにせ状況が状況であるために、主人公達が別れてゆく人物達もまた、その後のフォローは一切ない。彼らがどうなったのか、あの親切な人はどうなったのか。彼らは容赦なく突き進むカメラの背後へとどんどん遠ざかってゆく。なぜ子供が生まれなくなったのか。それも当たり前だけれども説明されることはない(そういう映画じゃないことは、わりと初期の段階で割れる)。世界の謎なんかない。そうあるように世界もまたただそこにあり、その世界は出来事として容赦なく生起する。

「容赦なく」子供が生まれなくなった世界。人類はただ、寂しくなってゆく風景に身を任せるしかない。この映画では意図的にさまざまなものが説明されない。だって、ぼくらのこの世界も多くの場合そういうふうにできているんだもの。ヒューマン・プロジェクトについてもだ。ヒューマン・プロジェクトとは何か、劇中で明かされることはない。それはほとんど信仰のようなものとして描かれる。ヒューマン・プロジェクトが語られる場面でUFOの話が出るのは単なるユーモアではないだろう。題名が聖書からとられているのはもちろん、レジスタンスグループの名前なんか"FISH"だ。キリスト教で魚が何を意味するか。知らない人は調べること。

もちろん、この映画で"FISH"がどうなったかを考えれば、この映画がキリスト教の映画でないことは確かだ。眼に映る徹底した叙事、容赦ない、視覚化された「できごと」の世界で、主人公たちを動かすもの。その存在すら明らかでない船にたどりつくために、主人公達は恐ろしい苦難と犠牲を払う。ただ逃げながら。

この映画は見えるものと見えないものについての映画だ。非存在への希望について語る映画だ。それは僕にとっては宗教ではない(あなたにとってはそうかもしれない)。時に容赦ない世界、ただ圧倒的に存在しぼくらを常に打ちのめそうとする世界。それを跳躍する方法を、この映画は延々と描く。それが狂気であろうとも、ときにぼくらにはそれしかないのだと。

誰かが、この映画は祈りだと言っていた。ぼくもそう思う。宗教的な意味はまったく抜きにして。

祈りと世界が衝突する場所として、この映画の長い長いワンカットは横たわっている。