ヴィタール

 9日木曜日、半年に一度のオラクルをききにいった。こればっかりは慣れないものだ。転位ということばが頭からはなれないまま、GE製のCTのSFっぽいリングに、体を輪切りにされてくる。

 そんな週が「ヴィタール」の公開週だというのはたちの悪い冗談だ。

 自分の体に、感覚のない場所があり、動かない、糸の切れた操り人形のようにぷらんぷらんな関節がある。その奇妙さはあっというまに自分自身となり、もはやこの脚がまともに動いたときのことを思い出すのも難しくなってきている。いま、ここ、それが自分のすべてだ。自己啓発とかで出てきそうな胡散臭さたっぷりの金言も、こと「からだ」に関する限りまったくそのとおり。この足首は、どうやってうごいて、どう感じたんだっけ。わからない。思い出せない。

 まっさらな肺とまっさらな術後創。自分の体の中を輪切りにされ、それがフィルムに焼きつけられ、ライトボックスの光を受けて浮かび上がる。

 喘息。癌。障害。日々身体を意識せざるを得なかった自分にとって、「イノセンス」の身体はまるで香具師の口上を聞いているような気分だった、と今だから言ってしまおう。身体はない、と押井は言って、肥大した「不在の身体」という妄想を犬に押し付けた。それが「外部にある自分の身体」だと。それはしかし、決して「自分の」身体ではないし、身体からは逃れられない。匂いを追放し、病気を追放し、人は身体を排除する方向へ向かっている、と押井は言う。そのとおり。だがそこで忘れられているのは、「匂いを排除し、病気を排除し、それでもなおそれは身体なのだ」という単純な事実だ。

「身体を生きざるを得ない」そうした生の存在を、押井は意図的にか無意識にか、「イノセンス」から排除した。犬は身体ではない。「思い」や「怨み」は身体ではない。押井はそこにしっかりと蓋をして、動かないぼくの足首を置き去りにする。たぶん、そこで身体という言葉は持ち出されるべきではなかったのだ。それはどこまでいっても「拠り所」でしかないと、正直に表現するべきだったのだ。身体という言葉はどこまでいっても言葉でしかない。あの映画の公開直前、ぼくは10年以上付き合った愛犬を失った。肝臓癌だった。だから押井の言いたいことはすごくよくわかる。だがそれは絶対に身体の問題ではない。ぼくは「イノセンス」が大好きだけれども(そりゃまあ、あんなコメンタリー注釈を作ったくらいだから)、それは身体を語った映画としてではない。こと身体と自我に関する限り、その映画は最悪の種類の無邪気さを振りまいていると思う。

 彼岸があると信じられない者にとっての救いは、「イノセンス」ではなく、「ヴィタール」にあると思う。素子が彼岸からやってきた瞬間、それは物語としては思いを寄せるものとの再会であり、そこに感動しつつ、しかし心のどこかでこれは絶対嘘だ、これはあり得ないんだ、と怒りすらおぼえていた自分。彼岸と此岸の往来がかくも無神経に描かれていること(それは「黄泉がえり」や「いま、会いにいきます」も同じだ)にものすごい嫌悪感をもった自分。

 じぶんが、からだでしかないということを知っていて、そこから逃れられないことを知っていて、死ぬのが怖い自分。

 たぶん、そんな憶病者には、「ヴィタール」はどこまでも誠実な映画に見える。解剖されていく身体、スケッチされていく身体。それをみながら、ぼくはひさしぶりに映画を観て感動していた。