サインは「V」

これは「いまどきの管理社会」のシステムを描いた物語ではない。というのも、この映画で描かれているのは管理社会ではなく「独裁社会」であり、そんなものがいまどきの「ぼくらの」管理社会だと思える人間は少なかろう。

に対して、「マトリックス・リローデッド」という名作(あ、そこ、石投げないで!)で描かれていたのはまさに、古くさい「支配」でなく、いまどきの「管理」の在り方だった。ぼくらは自由だ。ぼくらには選択する自由があるように見える。でも、それってほんとかな。そもそも自由ってなんだろう。自由っていうのはぼくらがアプリオリに有しているなにか実体のあるものなのかしら。「リローデッド」は、いいや、それは違う、という。無限定の自由などどこにもない、それはしくみ、アーキテクチャで決まっているものだ、と。ぼくらがネットに接続するとき、ぼくらがamazonで買い物をするとき、個人情報の群れがゆるやかに結びつけられて分析されるとき、ぼくらの社会の「自由」の幅は、静かに、どこかで、決定されている。決定する主体のない、関係性の中で。

これは思いっきりハードルの高い敵だ。自由を求めて戦っていたネオ君は、自由とは何かという問題をつきつけられてしまった。選択、選択、問題は選択だ、と言ってきたのに、選択は調整されうるし、そもそも無限定の選択などない、というおはなしになってしまったのだから。というわけで、「リローデッド」で一番盛り上がるアーキテクトのおしゃべりを聴いたあとで、ぼくはもの凄いアッパーな状態にあった。うおおおお!これって「物語」というメディアで解決可能な「敵(というか状態)」なのかよ!ウォシャウスキー兄弟ったら自分で「敵」の設定のハードル上げ過ぎ!すげえ!

 というわけでその後はご存知の通り、考えうる限りでもっとも凡庸でグダグダな手打ちが行われ、ぼくは(まあ、はっきり言って予想はしてましたが)ものすごいがっかりしたのだった。ヘボい受難劇のパロディで「アウフヘーベンしますた」とか言われても、あんた。「ハードル上げすぎました。正直、すまんかった」とか謝られても。おれの昂りはどうしてくれるんじゃい。まあ遠足は前日が一番楽しいというやつで、楽しそうな遠足の幻影をこしらえたことに感謝はしてもいいかもしれんが。それにしてもオッサン(とオネエサン、ですか、今は)、おいおい。

 というのが気になったかどうか、今回の敵は仕組み的にハードルが思いっきり低い。いわゆる独裁者。意匠は露骨にナチス。ラスボスが自由を抑圧していて、それをなんとかすれば万事解決。

 この種の管理社会は、いまや「懐かしい悪夢」となっている。管理の在り方が複雑化するぼくらの社会で、「支配」の物語はノスタルジーとしてしか機能しない。「リベリオン」がぞうであったように。「イーオン・フラックス」がそうであったように。映画的にかっこよくて面白い「ファッション」として、それらの社会は描かれる。「キャシャーン」のロシア・アヴァンギャルドの動員もそういうこと。そういした管理社会を描くとき、かならず権力的な建築がセットで描かれるのはそういうわけだ。ベルトリッチが「暗殺の森」という建築フェチ映画でやった手法を、近未来管理社会映画として使用する。そこにおいては社会はすなわち建築であり、建築がすなわち映画となる。権力的な建築で映画を埋め尽くせば、そこは中つ国がそうであるような、ナルニアがそうであるような、我々の世界とは隔たった、映画的な「異世界」だ。

 ぼくはそういう映画が大好きだ。ぼくは建築大好きなので、権力的な建築がたくさん出てくるとそれだけで痺れる。それらの映画においては主人公が屈従もしくは反抗すべき社会と、建築的異化とは、一体のものだった。

 しかし、この「Vフォー・ヴェンデッタ」に登場するのは……どこまでも、どうしようもなく、ロンドンだった。

 モニュメンタルな建築と言っても、いまここにあるオールドベイリーやウェストミンスター宮、といった観光スポットがせいぜい。この映画にはごくごくふつうの家庭のリビングが登場し、(イギリスといえばこれ、の)老人たちがぬるいビールを飲むパブが登場する。「あーあーこれパイソンでさんざん見たよ」というような低所得者住宅の連なり。この映画は建築的に「いま、ここ」と、「非現実的な」独裁社会を分離しない。

 そもそもファッションとしての管理社会は、ファッショナブル(寒々しく、権力的な、コンクリート打ちっぱなしみたいな)な風景を描くために設定されているといってもいいくらいだ。けれど、この映画はそれをしない。登場する軍隊も、かっちょいい制服を着ていたりはしない。「これどこのマリンコ?」とでも言いたくなるような、フツーの都市迷彩にフツーのヘルメットにフツーの防弾着の、どうみても僕らの世界の軍隊だ。

 つまり、こういうことが言える。ウォシャウスキー兄弟はあるものを捨てて、あるものを取った、と。今回、彼らは「システム」を描くことをやめた。それに対するこたえを見つけられなかったから。そうしたシステムを描くことを放棄しつつ、建築的な異化を極力避け、見知った風景の中で物語ることで、彼らはこの物語を「スタイルとしての」管理社会へ還元されることを避けようとした。

 そのやりくちについての結果ははっきりしている。陳腐な(ゆえに他の映画ではファッションとして消費されうる)体制を、それが陳腐(ゆえに他の映画ではファッションとして消費されうる)美術ぬきで描けば、それは「異世界」という言い訳をはぎ取られて、単なる陳腐な「支配」となる。

 しかし、体制が陳腐になったところで、この映画の風景はどこまでも「いまここ」であり、そうした風景の中で描かれる抑圧の数々は、「いまここ」の世界にもある抑圧だったりする。この映画で抑圧されるのはコーランを奉じる人々であり、非白人であり、レズビアンであり、ホモセクシュアルだ。といっても、この映画がそれらの人々の声を表象しているというわけでは、もちろんない(ブロックバスターですから、一応)。むしろ、それらの人々に代表される「異質なものの排斥」という状況を表しているのだろう。

 実は管理社会映画でありながら、この映画は「1984」のようにむちゃくちゃ管理された社会が出てくるわけではない。みんなけっこー普通に暮らしているように見える。逮捕拘禁がおおっぴらに行われているわけではなく、そうした秘密警察の大活躍は、人々の与り知らぬ場所で行われている感じだ(だからこそ、主人公も外出禁止時間に軽い気持ちで外に出歩いたのだろう)。そこらをうろついているのはあくまで「自警団」の連中であり、いわばボランティアの体制だ。市民の側から発したセキュリティ意識のパラノイアだ。

 つまり、この映画、なんとも気持ちが悪い構造になっているのだ。いま、こういう独裁的な「権力」を描いても意味がないし、むしろ陳腐ですらある。にもかかわらず、作り手はこの物語を「いま、ここ」の物語として描き出そうとすることにどこまでも本気で、しかも実際、ある程度は「いま、ここ」の物語だったりするのだ。このバランスの悪さは原作の書かれた時代というよりも、「レボリューションズ」の敗北(というかぶん投げ)が影響しているんじゃないか、と勘ぐりたくなるほどだ。

 要するに、この映画は「なつかしい管理社会」ではない。少なくともその志はガチだ。

 たぶん、「マトリックス」とこの映画を並べたとき、その目指すところがクリアになる。「〜ヴェンデッタ」のイギリスで排斥されるものは非白人であり、レズビアンであり、ホモセクシュアルだ、と書いた。そう、彼らはこの世界に違和感を感じている者たちだ。この映画である人物は語る。どうしてひとと違うことがいけないの?と。

 この世界はなにかおかしい、なにか変だ。その違和感こそが、トーマス・アンダーソンをモーフィアスのもとにみちびいた。一見平穏に見える世界の中で(そう、独裁者と秘密警察が登場するために見えにくくなっているけれど、この「〜ヴェンデッタ」の世界は、「異質でない」ひとびとにとって、実は「平穏な」世界なのだ。それこそ登場する風景が「ふつう」という意味だ)。

 たぶん、システムの問題は、ウォシャウスキー兄弟にとっては本質的なものではないのだろう。だからこそ「リローデッド」まで突き詰めておきながら、「レボリューションズ」で放り投げてしまうような真似ができたのだ。自分がこの世界に違和感を感じていること、居心地の悪さを覚えていること、みんなとおなじではないこと、それをみんなが許してくれないこと。

 つまり、この映画は根本において、政治的な映画ではぜんぜんない。右も左もアナキズムも関係ない。それはむしろ、思春期の青年が抱く名付けられぬ違和感のようなものだ。それを青臭いという言葉でくくってもよいだろう。人は世界に合わせることを学び、そうしてしまうからだ。

 けれど、ウォシャウスキーはそれを持ち続ける(オタクであるとか、性転換したとか、そういうことが関係あるかどうかは、わからない)。それによって映画を作り続ける。世界に居場所がないと感じる人々のひとりとして、世界に居場所がないと叫び続ける。この世界はなにかおかしいと叫び続ける。幼稚で、青臭い、それゆえに原初の、反抗の意志として。

 とてもとても青臭い物語。ぼくはその青臭さにちょっと感動してしまったのだけれど。