さてここでクエスチョンです

 スピルバーグは「ジュラシック・パーク」を映画化したとき、原作の八割をどぶに捨てた。

 ぼくはマイケル・クライトンが好きだ。「仏作って魂入れず」などとSFファンの多くから非難されるクライトン師匠であるし、ぼくも「まあ、その通り」とクライトン作品が好きであるにも関わらずそのことは認めざるを得ない。しかしあまり頭がよろしくないぼくにとって、googleがなかった時代、クライトンの作品は「知らなかった世界」に扉を開いてくれる啓蒙の書だった。世の中にはこんな新しい発見がある!世の中にはこんなに面白いことがある!それをフィクションの形をとって面白く物語ってくれるのがクライトンという人だった。

琥珀に閉じ込められた古代の蚊が吸い込んでいた血液のDNAから恐竜をクローン再生する」

 いかにもっともらしい嘘をつくか、という命題をエンタメ要素とするSFにおいて、こいつはワクワクするようなアイデアだった。思えばこの小説がいちばん、クライトンの著作の中でSFの魂に忠実だった小説だったかもしれない。SF者がどんなにクライトンを軽蔑しようと、他の誰もこんなおもしろいアイデアは思いつけなった。そして、そのアイデアを思いついた彼は様々な要素をこの小説にぶち込んだ。当時ホットだった恐竜温血説に、鳥類起源説、クローンとバイオテクノロジーに、これまた当時ホットだったカオス理論。原作の小説は、そうした各種のホットサイエンスをフィクションという土台で相互に絡み合わせて紹介しつつ、クライトンの定番の視点(システムの崩壊)でそれら要素を纏め上げた、いわばウンチクが肝の小説だった。

 つまり、これはそのままでは非常に映画にしにくい小説だったということだ。映画でウンチクを語ることは不可能である。映画はウンチクを語るという行為を映し出すことは出来ても、ウンチクそのものを説明することはできない。文章では面白く読めたものが、映画で語られるととたんに退屈になる。そういうわけで、骨の髄まで映画人であるスピルバーグは当然ながら原作のこの要素をばっさり捨てた。結果として画面に映ったのは、最新の恐竜学説ではなく(そんなものは「映せない」)、その学説を生きた実物として目の当たりにするサム・ニール演じる主人公の、科学者としての感動だった。ぼくは主人公グラント博士がジュラシック・パークではじめて恐竜を目の当たりにして目をきらきらさせる、あの場面が大好きだ。同じクライトンの「ツイスター」でも、ストームチェイサーたちの科学馬鹿(科学に熱中している、という意味の)っぷりに同じものを見出すことが出来る。クライトンは科学野郎どもが大好きなのだ。そして、スピルバーグはそれ以外のサイエンスに関わる部分をばっさりと「ジュラシック・パーク」から切り捨てて、ぜんぜん別の物語を語った。映画にしかできない物語を。

 この「ダ・ヴィンチ・コード」という小説は、まさにそうしたクライトン型の小説だった。クライトン師匠と違うのは、扱っているのがサイエンスやテクノロジーでなく、イコノロジーであるということ、しかもその話題がまったく新しくないうえにヌルいこと、お話がクライトンほど巧みでなく、基本的に「逃げ→一息ついてウンチク→逃げ」の繰り返しというまったく芸のないものであること、くらいだろうか。要するにオカルト出身で小説が下手なクライトンがいたとしたら、こういう小説を書くだろう、というウンチク主体の小説なのだ。

 ちなみに、この類の小説というのは「いかに面白いハッタリがかませるか」というのが重要なのであって、それに対して「ありえない」「事実と違う」という人間は馬鹿である。小説なんだぞ、技を見んか、技を。その技の上手い下手が重要だろうが。まあ、そのハッタリが上手くかませていないというならばそれは本当。ぼくもそう思う。

 さて、そういう「ウンチクによって展開し、ウンチクによって意外な真相が明らかになる」タイプの物語を映画にしたらどうなるか。ひとつの方法はスピルバーグのように、ウンチクを可能なかぎり切り捨てて、お話をまったく変えてしまう方法。またはエーコの「薔薇の名前」をジャン=ジャック・アノーが映画化したように、お話はそのまま残しつつ、ウンチクだけをごそっと切り落とす方法。そしてもうひとつは、馬鹿正直にそのまま視覚媒体に移してしまう方法だ。この「ダ・ヴィンチ」は三番目なのだけれど、それをやってしまうとどうなるかが、この映画を見るとわかる。それどころか、原作小説自体の性質も。

 要するに、「まんがはじめて物語」になってしまうのだ。

 歴史について語るトム・ハンクスの、あるいはサー・イアン・マッケランのせりふにかぶさって「当時はこんな感じでした」という映像が出てくるたびに、ぼくは映画館で笑い出したくなってしまって非常にこまった。映画を観にきて「世界ふしぎ発見」をやられるとは。いや、予想していなかったとは言わん。はっきりいって、それ以外どうしろと言うのだあのなんの芸もない原作を。「薔薇の名前」のようにウンチクを切り落とせば、お話自体は非常につまらない徒競争でしかなく、「ジュラシック・パーク」にあった設定そのものの面白さ、つまり「クローンで恐竜復活して人を食いまくるよ!」みたいな「これ、映画にしたらすごくねえ?」というフックも皆無。「これ、映画に向かんだろ」というのが、原作を読んだ最初の印象だった。これを映画化しようというのは、売れりゃいいってんならともかく、映画存在としては明らかに無謀だろ。映画化不可能とかそういう意味じゃなく、まるっきり映画向きでない本なのだもの。

「当時の十字軍」「当時の魔女狩りの様子」「二ケーア公会議のようす」「踊り狂うローマ市民」それ以上でも以下でもない、ひたすら説明でしかない映像がカラコレされてバシバシ出てくると「いや、まいった」としか言えなくなる。これは映画ではない。「挿絵」という表現は言いえているとは思うのだけど、原作を読んでない人にとっては本文のない挿絵はありえんだろう。とすると、これはあれだ、テレビでやっているドラマ仕立ての歴史番組。トム・ハンクスミステリーハンターとなって、野々村真であるオドレイ・トトゥに「さてここでクエスチョンです」と切り出す、あれだ。これで番組のほうがこの映画に絡めた企画を放映したら洒落にならんけど、まあたぶんやるでしょう。

 無宗教である日本人がこの物語をわからない、というのは、ぼくは単に感情移入する能力が欠けているだけだと思う。「相手の気持ちを想像する」という人間の基本的な能力があれば、信仰の有無や違いは実はまったく問題ではない(その意味で、ベルイマンみたいな映画ならともかく、キリスト教の知識がないから、とか言ってハリウッド映画程度の描写がわからない、というのは、「他人を思いやる能力」の欠如を告白しているだけだ、とぼくは思う。無宗教の人間は宗教者の狂信を笑うけれど、無宗教の人間が宗教者に対して示す非寛容さや「余計なお世話」や無神経は、信仰を持つものに比べて多く陰湿だ。ぼくは無宗教、というよりは無神論者だけれども、その種の無宗教者の傲慢や思いやりのなさは反吐が出るのだ)。「物語として語られる」つまりその登場人物たちが知っていたり信じていたりする、という意味での「キリスト教」に「映画を観ているあいだだけ」でも感情移入することができれば(つまり他の映画の物語を楽しむように、ということだ)、この結末だってじゅうぶんショッキングに「感ずる」ことは可能だし、ある認識が覆った、と疑似体験することはまったくふつうのことだ。

 だから、この映画が「キリスト教という狭い世界」を扱っていることは、まったく問題ではない。この映画の何が問題かというと、これが映画館の銀幕に映し出されてしまったことだ。これはどう考えても「世界ふしぎ発見」であって、時折はさまれるヘボい歴史再現映像がそれを証明している。