大きな物語は、常に、すでに死んできた。

http://d.hatena.ne.jp/shimasemi/20061202/1165077104

この文章に触発されて、いろいろ思考が沸いてきたので、ちょっと書いてみようかと。

「東西冷戦が終わってスパイ映画は作りにくくなった」

という話を書いている人がよくいます。ソ連、ひいては共産主義という悪役を失ったから、つまり大きな物語は死んだわけで、その他もろもろ。

さて、たとえば007シリーズを観てみましょう。007の敵は共産主義だったでしょうか。もちろん違います。スペクターだったり大金持ちだったりブードゥーだったり、そのバリエーションはさまざまですが、ソ連自体が悪役の007映画はほとんどありません。

確かに、50年代に書かれた原作小説はソ連が「敵」でした。ところが、ケネディフルシチョフの「雪解け」がはじまった60年代に制作がはじまった映画では、ソ連が悪役の座には着いていないのです。007の主敵は秘密組織「スペクター」であり、このスペクターがなんの略かというと、"SPecial Executive for Counterintelligence, Terrorism, Revenge, and Extorition"、訳すと「対諜報活動及びテロリズム復讐、恐喝のための特別機関」というすごい名前なのですが、この組織、各担当の売上げ(金銭的な)によってその担当の生死が決まる、究極の資本主義型悪役なのです。

「ロシアより愛を込めて」もソ連の対スパイ機関スメルシュが敵だった原作をわざわざ改変して、スペクターをメインの敵にしています。ソ連が悪役のときでも、「共存を目指す米ソのデタントが気に入らない右派」のような、一部平和を望まない急進派が敵で共産主義ソ連それ自体は敵ではありません。つまり、ボンド映画ではそもそも昔からソ連共産主義も敵ではなかったということです。

つまり、「ソ連という敵を失った」という紋きりが駄目なのは、60年代からソ連をおおっぴらに敵とする姿勢がすでにマズかった、からなのです。「冷戦が崩壊して、敵を探すのに苦労するようになった」というのも同様で、そういう人は実際にその時代に作られた映画をそれほど見ていないのに、一般的にそう言われているからなんとなくそう思っている可能性があります。実際、良し悪しの話ではなく、いまや「テロリスト」以上にお手軽な悪役がいるでしょうか。むしろ「テロリスト」というものすごく漠然とした言葉が、具体性を持った「敵」としてスクリーンに映し出されるようになったこの21世紀においては、冷戦のように「ソ連」といった具体名や、それどころか政治思想すらも無用になり、敵として「大量生産される」ようになったとすら言えます。敵の抽象度と記号性が、冷戦時代に比べてはるかに高くなった結果、それが特定の主義主張や国家を名指ししなくてもよくなり、結果として「配慮」も減るわけです。だって、「テロリスト」ですんじゃうんだもん。敵として特定の政治思想を指差さなくていいんだもん。イスラムとか言う必要ないでしょ「テロリスト」って。そこまるごとボカしても成立してしまう悪役が、今の時代にはあるのです。

そして、テロリズムとは我々の日常に対して所かまわず攻撃を仕掛けてくる脱領域的な「敵」である以上、つまり街中のカフェをターゲットに爆弾を仕掛ける敵が説得力を持つ世の中である以上、仮にアラブ系のテロリストが敵でも、舞台はヨーロッパであってもぜんぜんかまわないわけです。というか、「敵」の居場所は世界の何処でもよくなった、とすら言えます。、「ボーン・アイデンディティー」や「ミッション・インポッシブル」といった作品があることからもわかるように、現実としてスパイ映画はヨーロッパをいまだに好んで取り扱います。ソ連が敵だった時代であっても、ソ連に実際に潜入する映画はそう多くありません。だって、撮影できない(もしくはしにくい)から。それが中国やイスラム圏に置き換わっても、同じこと。敵の国がどこにあるか関係ない時代に、そこに潜入することの意味はまったくありません。

そもそも、「敵」を生み出すのにやりにくい時代もやりやすい時代も、そんなにないのです。だってあなた、冷戦以前の時代にスパイ小説やスパイ映画がなかったり作りにくかったりしたとでも?冷戦前からスパイ映画はありましたし、いまでも立派に需要はあります。だから、「冷戦」と「共通認識として受け入れられる敵の作りやすさ」は、冷戦前も冷戦中も冷戦後も、はっきり言って変わりません。

押井「紅い眼鏡」のコメンタリーで、司会の人が押井作品の警官主人公率の高さについて「冷戦が終わって、敵が作りにくくなった。警察ならとりあえず犯罪者という仮想敵がいる」と脚本家の伊藤和典さんに訊くと、伊藤さんはこう答えています。「ぜんぜん(冷戦が終わってどうこうということじゃなしに)、敵それ自体想定しにくいものだから。安直に言えばテロリストになっちゃうでしょ」

つまり、敵の生産にあまり時代は関係ないのです。

さて、この「冷戦が崩壊して敵が作りにくくなった」という「おとぎ話」の出所はどこなのでしょう。不思議なことにフィクションの作り手ですら、あれだけ「テロリスト」という言葉だけでお手軽に敵を量産しておきながら、「冷戦が終わって敵が作りにくくなった」と考えているようです。「大きな物語が解体された」という考えがセットになって言説の中に登場することもあります。

でも待ってください。「大きな物語」が死んだって、これがはじめてのことなの(いきなり大きく出たな)?ずっと昔から、それこそ人類の歴史が始まってからずっと、「大きな物語」って「死に続けて」きたんじゃない?いつも。それこそ不断に死に続けてるんじゃないの?ある共同体が外の世界を知ったり衝突したりするたびに、いつだって共同体の上部構造に座する物語は死んだりピンチに陥ったりしてきたんじゃないの?それを「米ソ二極化の消滅」だけが「大きな物語の死」だなんて、自分の生きてきた時代を神話化して特権視するノスタルジーの産物に過ぎないんじゃないの?フクヤマとか、あるいはポストモダンの連中がいい始めたんじゃないの?少なくとも、フィクションにおける「仮想的」としては、冷戦が終わったなんてのは蚊に刺されたほどの出来事ですらない。

とはいえフィクションの生産における「冷戦終結でやりにくくなった」神話が語られるにあっては、そう世界を眺めたい人の願望が投影されているわけで、じゃあその神話と願望はどっから出てきたのでしょう?
(書き途中)