理由と喪失
「ボーン」に関して、一応ネタバレであると前置きしつつ、
ジェイソン・ボーンは改造人間である。彼を改造したCIAは、法的例外状態を正当化する悪の秘密結社である。ジェイソン・ボーンは、人間のアイデンティティーの為にCIAと戦うのだ。
本郷猛が、誘拐されたのでなければ、どうだったろうか。
自らの意思でショッカーに入り、望んで改造台の上に、目をしっかりと見開いて自分で昇ったのだったら、どうだったろうか。
ボランティア、という言葉がカタカナの日本語と化したとき、そこから重要な意味が抜け落ち、結果としてボランティアは特定の方面に多用される言葉となった。介護や海外協力、公園のゴミ拾いや町の清掃活動。奉仕活動全般だ。もちろん、本来のvolunteerが持つ意味は、自発的、ということだ。だからこの語はあらゆる志願に関して用いられる。そもそも、この言葉の示すところは「志願兵」だったのだから。徴兵制を廃止した現在の米軍は、兵制で言えばボランティア・アーミーのカテゴリに属する。冷戦期、ソ連とその共産圏の最前線──いわゆる「ヨーロッパ正面」にあった現在のEU加盟国の軍隊は、その大半が「国土防衛」を目的としていた──つまり、面として防衛することだ──ために、多くの兵員を絶えず動員可能な状態に保つため、徴兵制を採用していた。しかしソ連が崩壊し、戦争の仕組みが大きく変容すると、平和維持軍としての海外派遣や即応軍、あるいは対テロ活動といった、軍に要求される戦争遂行力の質も変化した。面を防衛する必要を失ったヨーロッパの軍隊は、兵員を持て余し、よりシェイプアップする必要に迫られた。少ない兵員によるより高度で専門的な戦争、という作業形態の要求により、現在志願兵による編成への切り替えが行われている。強制でない以上、給料、福利厚生などを民間とある程度張り合わなければならないために、ひとりあたりの兵員単価は高くなるが、それでもものになるかどうかもわからない、そもそもやる気があるかどうかわからない大量の兵員を訓練し、飯を食わせるよりは安くつく。単純にコストの問題だ。
志願してその組織に入ること。これは軍隊に限らないだろう。会社だってそうだ。他に選択肢がなかった、とか言うこともできるけれど、基本的に、我々の日本社会で、あるコミュニティに入るというのは志願、自分の意思と責任に於いて行われることだ。現在も世界には幾千万の難民が所属する場所を選ぶこと叶わないということを思えば、これは幸せなことだといえるだろう。
だから、われわれにはオウムに入信する自由があった。地下鉄にサリンをまいた人々は、志願してオウムに入ったのだ。世界をどのようなかたちであれ変えるために。何かに志願するということ、何かの組織に入るということは、多かれ少なかれ、主体をそこに明け渡すことでもある。程度問題はあるにせよ。
本郷猛が、志願してショッカーに入ったら、どうだっただろうか。
自らの意思で、かたく決意に結ばれた唇とともに、自分が人間で無くなる境界線たる手術台の上に昇ったら、どうだったろうか。
ジェイソン・ボーンは自らの意思で、そこにやってきた。自分が自分でなくなる場所に。
記憶を失ってからのジェイソン・ボーンは、「体が覚えている」異常な戦闘能力の高さ、エスピオナージュ工作の巧みさを別にすれば、自分が何者であるかわからないことに怯える、ごく普通の青年として描かれていた。「ボーン・アイデンティティー」に於いて、彼が貸し金庫から見つけた銃を早々に放棄してしまう描写はいまでも憶えている。一作目をダグ・リーマンは異様な状況における青春映画として描いた。スパイや殺し屋の物語でなく、自分を探し続ける青年の物語として。
二作目に於いても、彼の探求は変わらない。それは復讐の旅である以上に、理由を知るための物語だった。なぜ、愛する者が奪われなければならなかったのか。なぜ、自分は今だ狙われ続けるのか。そんな彼の切実な旅を、そしてその過程で描かれる彼の優しさを見てきた観客は、どう思っただろうか。もしかしたら、彼は望んで殺し屋になったのではないのではないか。強制されて、洗脳されて。そんな期待を、わずかでも抱いたりはしなかっただろうか。もしかしたら、ジェイソン自身もそう期待していたのではないか。自分が被害者であるかも知れない可能性を。
そんな期待があったとしたら、それは少しだけしか叶わなかった。
監督のグリーングラスが用意したのは、ある意味何の驚きも無い、それゆえに容赦ない、曖昧で残酷な答えだった。デイヴィッド・ウェブは志願して、いまの姿になった。充分な説明を受けて、自分が自分でなくなることを承知して、この姿になった。そして、それが洗脳の最終過程なのか第一歩なのかわからないが、そこにたどり着くためには、見知らぬ誰かを、理由も与えられずに、ただそう命令されたというだけで殺すことのできる人間に生まれ変わるための、あまりにおぞましい儀式を経ねばならなかった。
デイビッド・ウェブが奪われたものはなんだったのか。デイビッド・ウェブという自我だけだろうか。彼から奪われたもの。それは理由だった。ウェブは兵士であったから、なぜと問うてはならないことは百も承知だったろう。しかし、大義名分という言葉が示すように、兵士とて完全に「何故」を放棄しているわけではない。家族のため、国のため。大いなる義。大きいが故に大雑把でもあるけれど、行動の根底にそれぞれの義は存在する(それがどれほど碌でもないことだとしても)。しかし、トレッドストーン工作員はその理由なしに行動するよう叩き込まれる。自分が殺す相手が何故殺されなければならないか、その理由を喪失したままで、彼らは綿密な計画と的確な行動を起こすことができるよう改造される。
この物語の最終章は、理由を求める戦いの軌跡だと言える。自分を生み出した者たちに会うこと。自分が何故殺し屋になったのか、もしくは殺し屋にさせられたのかを知ること。その果てに彼は、自分がまさにその理由を自ら放棄したという事実を知ることになる。ウェブにとって国を、国民を守るという大義では不充分だった。その大義を絶対的なものとするためには、それについて思考する存在であることを止めなければならない。義を「必要」としているうちは、自分は義の外側に在る。義の「ために」戦っているうちは、絶えず義を「参照」せねばならない。自分が義そのものではない。これは大義に関する至極当然の、だが義にとってみれば矛盾した点だ。だから自分が義そのものへと同化するためには、つまり義を永遠の中に固定するためには、文字通りの殺人機械として、自動的にタスクを処理する存在にならなければならない。義を必要とすることで義から疎外されるという逆説を突破せねばならない。義を必要とすることを止めなければならない。そうなったときに初めて、動機や大義は完成される。
蜘男やさそり男が、かつて自分と同じように誘拐され洗脳され改造された、罪も無い人間達であったとしたら(てか実際そうなんだけど)、彼らと同じ素材でできている仮面ライダーは、彼らを容赦なく倒せるのだろうか。ラストに於いて、もはやジェイソン・ボーンであることを止めた男は、かつての自分と同じような暗殺者に向かってこう語る。「おれ達を見ろ」と。字幕では「人間といえるか?」になっていた”Look at what they make you give.”は、「アイデンティティー」に於いては「これがおれ達の末路だ」と訳されていた。ボーンを倒そうとして返り討ちにあった「教授」の最後の台詞だ。
これは理由を喪失することについての物語だ。国を守るため、国民を救うためと言われて志願してみれば、そこに待っていたのは理由について考えることを奪われ、ただの機械として人殺しを遂行してゆく世界だった。しかし、そのそもそもを見据えてみれば、すべては彼自身の志願によることだ。イラクで人を殺し、戦争がひとまず終わってみれば、そこに大量破壊兵器は無かった。しかし、それはアメリカの国民がそもそも望んだことではなかったか。復讐を、戦争を望む声がなかったとは言わせない。いくらいま、こんなはずじゃなかった、と大声をあげようとも、すでに多くの人が死んでいる。そして死人は生き返ることがない。時間は不可逆な素材からできている。時間が元に戻らないからこそ、罪というものが存在するのだ。
この映画に於いてもうひとり、なぜ、と問う存在、それがCIAのパメラ・ランディだ。「いつまで(こんな殺しを)続けるの?」と詰め寄る彼女に、国家防衛のために自国民の殺害すら厭わないCIA内部の超法規機関の長であるノア・ヴォーセンはこう返す。「勝つまでだ」と。彼は完全に自らの役割を知悉している。彼は大義を信じ、己の仕事の重要さを、傲慢なまでに信じている。自らが使役するブラックブライアー工作員と違い、大義を「信じなければならない」普通の人間ではあるものの、その行動に於いては迷いがない。
スタンフォード監獄でのロールプレイによる実験を引き合いに出すまでもなく、人間は自らの役割(ロール)に過剰に適応してしまう。あるシステムの内部に志願してそこに位置を占めるというのは、システムにおける役割を担い、演じるということだ。いかにも悪役然としたノア・ヴォーセンとて役割に過剰適応しているに過ぎない。彼はあくまで国家のために戦い、その果てに極秘の殺人を行っているのだから。そんなヴォーセンはこの映画に於いて一応悪役の座を占めてはいるものの、むしろ興味深いのは脅されているふうでもなく、明らかに自らの職務と役割を淡々と引き受けて、狂信者の瞳をちらつかせることもなく、淡々と真面目に「仕事」として同僚(ニッキー)の殺害指令をサポートしてゆく、司令室のオペレータたちだ。彼らもまた、自らのロールに適応し、なぜ、という問いは忘れ去られるか、あるいはプロ意識か役割意識によって抑圧されてしまっている。
「メディアは存在しない(斉藤環)」によれば、こうした状況においてロールへの過剰適応から主体を保護する希望となるのは、観察者の視点であるという。あるカルト集団への潜入調査に於いて、洗脳過程に等しい入会儀式を経てなお取材者が深刻な影響を受けずにすんだのは、まさにその取材者としての立場によるということだ。パメラ・ランディは「ボーン・スプレマシー」で描かれていたように防諜担当の上級職員(Counter-intelligence Supervisorと台詞で彼女が役職を名乗っている)だ。それはすなわち、自分達の中にスパイがいないかどうか、自らの組織を観察し監察する役目でもある。この映画でパメラが味方についたのは、その職務ゆえだった。彼女は組織に属しつつ、組織を観察者のように見なければならない、というねじれを職務上背負わされる。彼女は組織の義を信じつつ、相対化せねばならない疎外に身を置いている人間なのだ。
「アイデンティティー」の音声解説に於いて、監督のダグ・リーマンはこの映画が「オズの魔法使」であると言う。そして奇しくも、ボーンが自分の生れた家を目指すことになるこの三作目は、そのリーマンのコンセプトを美しく完遂することになった。家へ帰ってくる子を待ち受けるのは、この映画では父親である。「生みの親」ハーシュ博士を演じるアルバート・フィニーのここ最近のフィルモグラフィーに「ビッグ・フィッシュ」と「プロヴァンスの贈りもの」が輝いていることは決して偶然ではない。これは「師匠役者」としてのリーアム・ニーソンと同じ意味における、タイプ・キャスティングだと解されなければならない。フィニーの肉体は「ボーン・アルティメイタム」に於いて、明らかに「父性」もしくは「父権」として召喚されたのだ。息子に「義であれ」と告げた父として、「義であるために主体を明け渡せ」と要求した父として。
理由を求める旅の果てに、男が知った真相とは、かつて自分が信じる「理由」の道具と化すために、「理由」そのものを放棄したという事実だった。
「なぜ俺を殺さなかった」とボーンに銃を向ける殺し屋は言う。なぜ、と問うたとき、なぜ、と問いを発しなければならなかったとき、もう彼は殺人機械であることを止めている。だから彼は銃口を下ろした。ボーンの答えは、実は重要ではなかったのかもしれない。なぜ、と問うたとき、すでにすべては終わっていたのだから。