ゲームにおける民間軍事企業

前からちょっと気になっていた洋ゲーが、「Army of Two」というタイトル。日本でも(嬉しいことに)PS3とX360で出るらしいので、多分買うと思うけど。

なぜかアイゼンハワー軍産複合体の台頭を警戒する例の演説)の映像から始まる謎な構成のトレイラー。意味わかんない(いや、演説の内容はメジャーなのでヒアリングできなくても知ってますが)けど、アイクの演説をバックに展開する映像、という編集でぐっと掴まれた。いいね〜いいね〜、こういうセンス大好き。映像に関して言えば、低空で飛行するブラックホークとか最高。ハンヴィーから撃ちまくるあたり(でも、ソマリアの教訓でつけられたはずの盾が銃座にないぞ)とか、もろにブラックホーク・ダウンで萌える。

2人で協力しあってゲームを進める、というあたりが面白そうなのだけれど、このふたりのプレイヤーキャラクター、実はPMCの兵士という設定だったりする。


この「HAZE」もPMCが主人公。戦争が完全に外注化された2048年の世界が舞台。

FPSといえばアメリカ、FPSといえば戦争、なわけで、戦場シューティングゲームがジャンルにおいて大きな人気を占める米ゲーム業界でも、PMCを大きくフィーチャーした作品が発売されてきているわけですな。

「Army of Two」や我らがMGS4を見ると、「プライベート・ライアン」なくしては「メダル・オブ・オナー」なかったように、90年代のソマリア、つまり15年くらい前の戦闘を描いていたはずの「ブラックホーク・ダウン」が、いまだに映画やゲームに大きな影響を与えているのがわかる。バイオ5やMGS4の最初のトレイラーはブラックホーク度がすごく高い。ふたつのゲームはともに、ブラックホーク・ダウンをリファレンスとしている。

重要なのは、あれがまだまだ「現代戦」を描いた映画として通用してしまうこと。現実にはあの事件の教訓を生かして米軍は組織や装備を大幅に改編したにもかかわらず、だ。

80年代の戦争アクションがベトナムをある種「終わった」戦争として扱っていた(「まだ終わっちゃいねえ!」というランボー的主題も、「終わった」という共通認識へのアンチテーゼとして発せられるのだから、同様)のに比べると、ブラックホーク・ダウンソマリアは、まだまだバリバリ現役の戦闘として、そして現代の映像的主題として生きている、というあたりが、何か不気味というか、異様なものを感じる。

ベトナムが終わってくれたようには、ソマリアは、いや、もしかしたら最初の湾岸戦争は、そのビジュアルスタイルに於いて「終わって」くれないのじゃないだろうか。

そして、そんな「15年前」の風景であるはずのブラックホークな映像に与えられる、PMCという「最近注目を集める」風景。ここにはちょっとしたギャップがあるはずだ。でも、それはごくごく自然に馴染んでしまう。結局のところ、不正規戦の行き着く先はPMCということなのだろうか。それが国軍であろうが民間であろうが、不正規戦のフィールドに於いては同じように見えてしまう、ということなのだろうか。その結果として、15年前のソマリアの風景が、PMCが戦う現代にそのまま当てはめられても問題ない、ということなのだろうか。

ぼくが気になるのは、PMCの兵士を主人公(プレイヤーキャラクター)にする、ということについて、当のアメリカ人はどのような感情や倫理的判断を下しているのだろう、ということだ。良いも悪いもない、というあたりが、軍事が日常風景である国アメリカのPMCに対する感情だろうか。これがたとえば日本人なら、PMCはなんとなく悪役にまわりそうな気がするのだけれど。

厄介なのは、むこうにはGTAみたいに、ギャングや泥棒が主人公になったりすることだ。これではあまり倫理的、感情的判断のショーケースにはならない。ゲームの中では、ある程度は何やっても許される、というような風土があるのであれば(なにせモータルコンバットの国である)。