宇宙戦争

「ははは、人がゴミのようだ!」
天空の城ラピュタ

 要するに、たかがキャッチボールをこれだけ暴力的に演出できる男の才能とは一体なんなのか、ということだ。「見せること」がまさか暴力になるとは思っていないルーカスなどとは、演出の地力がケタ違いだ(どう考えたってEP3より「映画力」が上でしょ、この映画)。

 冒頭近く、父親と息子とのぎこちないキャッチボール。しかし、ここで重要なのはそのキャッチボールが描き出す主人公と息子とのドラマにあるのではない。我々が驚くべきは、そのキャッチボールが、たかがキャッチボールであるはずの風景が、スピルバーグの手にかかると物凄い暴力の予感に満ちたやり取りと化す、その異常な演出力だ。質量とスピードを持った物体が、大きなインパクトとともにミットのなかに押さえ込まれる。ズバン、ズバン、とやり取りされる毎に、その質量はより大きなパワーを獲得してゆく。心理は映らない。画面に映らないドラマ云々言う奴はひっこんでろ。それをとことん知っている男スピルバーグは、親子の関係を質量をぶつけあう暴力のやり取りとして描くという、常軌を逸した方法をごく自然に選択した。これだけ物質感に満ちた、これだけ息苦しいキャッチボールははじめて観た。そして、トムの放ったボールがガラスを割って、この場面は終わる。その硬球が自宅のガラスをブチぬいたとき、それは漫画で描かれるあまたの草野球の風景とまったく同じ風景であるにも関わらず、鈍器で誰かが殺されたようなインパクトを持って、このキャッチボールは終りを告げるのだ。これは決して大袈裟に言っているのではなく、事実、ぼくはガラスをボールがぶち抜いたとき、おうっ、と思わず劇場で声を上げてしまった。こんなこと、もう何年もなかったというのに。

 たかがキャッチボールをここまで暴力として演出してしまう男。それは、この映画がたとえPG-13(本国)であろうとも、ありとあらゆるものを暴力的に描くことができるという、スピルバーグの勝利宣言に他ならない。これから貴様らに、びっくりするほどいろんな暴力を見せてやる、そうスピルバーグが笑っているのだ。キャッチボールが暴力と化すこの風景に接して、映画という視覚を操作するメディアにあっては何気ない風景ですら暴力と化す、あなた方がこれから接するのはそういう風景だ、という予感を感じ取れぬ者は、ドラマやカタルシスの欠落と言った、「視ること」、視ることによって風景が変貌すること、の喜びを忘れた十年一日の念仏を繰り返して、映画とすれ違っていくことだろう。

 画面に暴力が炸裂するとき、スピルバーグは映画を支配する。

 つまり、ぶっちゃけ大人気ない。スピルバーグは今回、大人気なく本気汁ドバドバの暴力を画面にぶちまけまくる。「レイダース」でトラックの前に落ちた男の体が、轢かれて折れ曲がったあの風景。血も、グロ描写もないのに、あの一瞬、この監督は暴力を撮るために生まれてきたのだと確信した。「ジュラシック・パーク」で便器に座ったままTレックスの喰われ振り回される男の体。そして「シンドラーのリスト」で、後頭部を撃たれ、クニャッと倒れるユダヤ人。「個」の殺戮に関して、スピルバーグは悪魔的な才能を画面に叩き付けてきた。「暴力」を描かせたらペキンパーもイーストウッドも、スピルバーグの足許にも及ばない。なぜなら、スピルバーグは子供のような無邪気さで暴力を描くから。ペキンパーの暴力が纏ってしまった詩情をいささかも背負っていないから。バーホーベンがやるようなシニカルギャグですらなく、暴力そのものに意味を与えないから。彼の残酷さは、子供の残酷さだ。

 ホロコーストを描きながら、その暴力は「個」へと向けられていた「シンドラー」までの映画とは異なり、「プライベート・ライアン」以降、スピルバーグは集団の殺戮、すなわち「虐殺」を描写するテクニックに関心を抱きはじめる。そして「シンドラー」が「個の殺戮」の頂点をあっさりと極めてしまったように、この「宇宙戦争」で彼は〜PG-13であるにも関わらず〜「虐殺」の頂点を極めてしまった。

 「シンドラー」の射殺場面を視たとき、背筋が凍るとともにこう思ったものだった。リュミエールが映画の創成期に死刑を撮っていれば、こういう映像になったのではないか、と。

 虐殺とは、人をゴミのように処分することだ。と、字ヅラ書いてもそれはレトリックに過ぎない。しかしスピルバーグは視覚の人だ。たぶん視覚で人を変えることができると信じている男だ。「人がゴミのよう」、結構、ではあなたが軽々しく使ったレトリックを、実際に映像としてお目にかけよう。そしてスピルバーグは実際に人間をゴミにするのだ。大人気ないとはそういうことだ。殺人光線を浴びた犠牲者の肉体だけが灰になり、残された数千人分の衣服が天からヒラヒラと降ってくる。ウン百という死体は川面をうめつくして流れ行く。ゴミのように。

 映画における暴力とは何か。それは否応なく見せつけられるということだ。真の意味で「見世物」だということだ。ドラマに、因果に堕ちることなく、「宇宙戦争」は崇高ですらあるくらい「見世物」であり続ける。

 呼吸は映らない。ならばその口許に蜘蛛の巣を置こう。そして、ダコタ・ファニングの喘ぎはひらひらする蜘蛛の巣として視覚化される。それがスピルバーグの映画の在り方だ。

 そして、そのような視線で我々は終末の風景に立ち会うことになる。目撃すること、「否応なく」見せつけられること。それはまさに、この映画の主人公の立場に他ならない。「A.I」で人類滅亡の唄を描いたスピルバーグは、この映画で再び終末を描く。通信が途絶し、軍隊は通り過ぎてゆく。外界と遮断され、地下室に閉じこもったまま、外の世界を知る術はない。見事なまでに終末SFの王道っぷりだ。世界が「寂しく」なってゆくこと。世界からさまざまな要素が抜き取られ、閑散とし、やがて風の音のみが唄う風景がやってくるだろう。そんな終末への憧れを、スピルバーグは怪獣映画として描く。

 そう、これこそ我々が夢見いていた怪獣映画ではなかったか。実際に怪獣が街に現れたらどうなるだろう。巨大な歩行物体が都市を蹂躙しだしたらどうだろう。道路に立った我々の目にはどう見えるだろう。樋口真嗣ガメラの足許にカメラを置いて、見上げることでそれを表現しようとした。しかし、この「宇宙戦争」はそれを否定し、町中に怪獣が出現し、それを目撃するとはこういう状態だ、とはっきり宣言する。そしてそれは圧倒的に正しかった。

 われわれが怪獣を目撃したらどうなるだろう。そういう願望に限定した場合の「怪獣映画」の役割は、図らずもこの「宇宙戦争」が達成し、またとどめを指してしまった。「ゴジラモスラキングギドラ」DVDの特典で、樋口真嗣神谷誠品田冬樹、村川聡、押井守が対談しているが、そのとき樋口と神谷が怪獣ファンの究極の願望として語っていた「怪獣映画版ブラックホーク・ダウン」、つまり「ライアン」の素晴らしい冒頭15分を2時間全面展開した映画としての「ブラックホーク」に対して、2時間ずっと怪獣の怪獣映画というものの可能性を語っていたが、この「宇宙戦争」はまさしくそのものだ。

 人がゴミのように死んでいくなか、世界は寂しくなっていく。怪獣が世界を蹂躙し、我々は反撃の機会すらロクに与えられず、ただただ暴力の羅列を観ているしかない。そして、世界が終わる。そんな映画が観たい人は、迷わず劇場に行ったほうがいい。この映画には反撃を命じる大統領も、軍の高官も出てこない。そんなものは終末を語る上でジャマなだけだからだ。終末は、個人の視線から世界の断絶として描かれる時にのみ、それ独特の感動を生み出すのだ──「ターミネーター」で、嵐が来るというガソリンスタンドの主人の言葉に答えを返すサラ・コナーの表情を観ていてなお、反撃する人類や大統領や活躍する軍隊を、カタルシスを描け、と阿呆のように要求する者は、終末の喜びを理解せぬ者たちだ。個人の視線から世界の終りが描かれることの喜びを、冷戦が終わってから久しく忘れていたこの感動を、「宇宙戦争」はひさびさに味わわせてくれる。世界が終わることの安らぎを。

 イーストウッドとは別の方向で、スピルバーグはいま、アメリカ映画最強にして最凶の監督になってしまった。このおっさん、次どーするつもりなんだ。