イースタン・プロミス

ここ数年、変質してきたと言われるクローネンバーグの映画ではあるけれど、もちろん変わっていないことも幾つかある。そのひとつはセックスがまったくやらしくないということである。「ヒストリー・オブ・バイオレンス」のチアリーダー場面(クロ様が奥さんと一緒に演技指導して、ヴィゴが「え、それリアル『人生狂騒曲』やんけ」とドン引きした場面ですよ!)などはエロというよりひどく陰惨な印象ばかりが残って、外してしまった芸人のネタのようなやるせなさというか、なんというかセックスの成れの果て、セックスの残骸を見せつけられているような趣が、そこにはあった。

「クラッシュ」に於いてジェームズ・スペイダーデボラ・カーラ・アンガーが黒いシーツの上で交わる場面は、セックスと言うよりは交尾の観察とでも形容したいような趣があって、そこにはバーホーベンともキューブリックとも違った、えらく寒々しい、昆虫を観察するような視点があったといえる。

というのも、クローネンバーグの映画におけるセックスというのは実は外化されており、セックスそのものよりもセックスを取り巻くクローネンバーグの奇怪なオブゼッションに転移している場合が多いからだ。「戦慄の絆」もまたセックスを隠し立てなく映し出す映画ではあるが、むしろエロいのはジュヌヴィーエーヴ・ビジョルドを縛るロープであり、さらに言えば説話上まったく必要性がないくせに画面を完全にかっさらってしまうあの異様なハンドメイド堕胎機具の造形である。

イースタン・プロミス」で一番セクシュアルな場面はどこか、といえば、一も二もなく新たな入れ墨を彫るために、ヴィゴがパンツ一丁で料理店のソファに座り、彫り物師に脛と膝とを預けて煙草を吸っている場面である。「ホモ」が人ひとり殺しても仕方ないような罵倒であるロシアン・マフィアのマッチョな世界にあって、この場面はとてつもなくホモセクシュアルなエロティシズムに満ちている。実際、売春宿での露骨なセックスがあるにも関わらず、一番セックスがセックスらしく見えてくれるのはこの彫り物の場面だけなのだ。セックスそのものでないのもかかわらず、ここが一番エロイというのは普通のお話としてどう考えても間違っている。

この映画で描かれるロシアン・マフィアは、恐ろしく純化されたホモソーシャルな集団である。男の裸をねめつけるように何人もの老人たちが鑑賞するというのは、普通のマフィアではなかなかないだろう。セックスという直接的手段ではないが、彫り物というのが、多分にエロティシズムを含有した行為あることは言を待たない。そこでは、男は切っ先を受け入れることいを、受け身であることを余儀なくされる。シンボルを刻みつけられる一物を、肌に刺され、受け入れることを余儀なくされる。あらゆる男性が受け身にならざるを得ない瞬間、ヴィゴの肉体はおそろしくエロい代物として画面に存在感を放つ。代わりと入ってはなんだが、「日記」で言及されてたはずの、ロシアン・マフィアのボスのセックス場面はこの映画には登場しないし、その息子に至ってはホモ呼ばわりされている始末である(実際、カッセルとヴィゴとの関係はホモセクシュアル的である)。

この映画では、ホモーソーシャルである共同体のセックスが、どのような表現系をとるのか、それを見ることができる。ヴィゴと鉄砲玉の痛そうな戦いが、全裸で、しかもサウナで行われるのは決して偶然ではない。端正ではある、今までの作品よりさらに地味ではある。しかし、この映画におけるセクシュアリティは、いままでのクローネンバーグの映画と同様の手付きで処理されている。行為として映し出されるセックスは徹底して陰惨で寒々しいが、その内実はホモソーシャルな社会ならではの、我々が思いも寄らなかった「外部」に転移して描かれているということだ。

それが、この映画でヴィゴが一番かっこよく(セクシーに)、一番高価い服(アルマーニ!)を着こなして登場する理由なのだ。