バットマン・ビギンズ

 ブルース・ウェインがバットスーツのアーキタイプを「俺色に染まれ」とスプレーで黒く塗装するとき、その光景はまるでガレキやプラモを塗装する風景にしか見えず、そのマニュファクチュアの生々しさが生じせしめる卑近さは、しかしスパイダーマンの卑近さとは明らかに性質の異なるもので、ピーター・パーカーがコスチュームを裁縫する過程のヘボさが、我々自身のへぼさ、時に「等身大」と呼ばれる我々自身のパロディとしてのヘボさであるのに対して、そのガレキ塗装的空間の醸し出す笑いは、ひとえにブルース・ウェインが我々自身のパロディなど決して演じ得ない、暴力的なまでの金持ちである、ということに由来する。

 この映画の上映前にやっていた予告編が「チョコレート工場」だというのは何とも皮肉な話だが、徹底的に「いま、ここ」ではない空間を演出したバートンに比べ、いや今迄のすべてのバットマンにおいて、今回のバットマンはその金持ちっぷりが暴力の域にまで達していて、それはラストシーンで、彼の屋敷の立地が明らかになる衝撃的な切り返しによって完璧なものとなる。こいつ、ゴッサムに住んでねえじゃん。それまで頑固なまでに屋敷を正面からしか捉えなかったカメラが、ヒロインの顔アップをなめて恐ろしいまでの緑の野を、それはもう地平線の彼方まで広がる緑の田園を捉えたとき、その衝撃は「メメント」など比較にならぬほどの衝撃の結末と化し、そして我々の心に生じる静かな怒りは、貧乏人が金持ちに対して抱く殺意のそれであるだろう。また怒らぬものはこの切り返しの暴力的なまでの緑色によって完結する「ブルース・ウェインブルジョワジーの密かな愉しみ伝説」という物語クライマックスに心地よい笑いを発するだろう。

 その金持ちエピソードを逐一挙げるのは鑑賞者の愉しみを奪ってしまうだろうから割愛する。しかし、すさまじいまでの金持ちがコウモリ型の手裏剣を手作業で削り出すのを目撃するとき、我々はこの「ブルース・ウェイン」の、金持ち故の、変態趣味を間近に観察しているという奇妙に倒錯的な悦楽に襲われることになる。マイケル・ケイン演じる執事アルフレッドが、シコシコとバットスーツの耳の発注に付いて想いを巡らし、ブルースがコウモリ型の手裏剣を悦にいった表情で研摩するのを、ホモセクシュアル的な慈母の微笑みで見守るのを目撃するとき、われわれは青年のマスターベーションを暖かく見守る師、という低劣極まる比喩を、しかし想起せずにはいられないだろう。「ぼくを見捨てない?」「Never.」この言葉に込められた親父パッションの奔流は、忠誠心や疑似父子といったありていの表現を越え、クリスチャン・ベールマイケル・ケインとの男色的桃源郷をスクリーンに打ち立てるだろう。

 あの「寒々しい」ベトナムキューブリックのために建設し、フランク・ロイド・ライトやガウディを参照しつつ、徹底して現実味、「いま、ここ」を排除した故アントン・ファーストのプロダクション・デザインの居場所は、クリストファー・ノーランゴッサム・シティにはない。彼のゴッサム・シティはまるでニューヨークだったり、ロサンゼルスだったり、きれいにガラス張りされたごくごく普通の街で、その中央を貫通するモノレールと、ウェイン・タワーのディズニーランドめいたアトラクション性は、周囲のビル群の凡庸さ、というよりもフィクションを徹底して排除したリアリティによって、ファンタジーという逃げ場を失って、普通の街に突如出現した特撮空間と化す。このバットマンは、「現代性」を排除することにまったく熱心ではない。これは時代場所不明が持ち味のバートンと決定的に異なる点だ。ノーランは「いま、ここ」の物語としてバットマンを描き出すことを選んだ。

 その意味で、バットモービルが夜の道路を疾走し、パトカーから逃れようとする場面はその頂点と言っていい。そのあまりに報道カメラじみた即時性、我々が「ロサンゼルスで、強盗が警官の制止を振り切って、高速道路でカーチェイスを演じました」というアナウンサーの言葉とともにブラウン管に見い出す「衝撃映像」のヘボい、しかし生々しい臨場感が、この映画をどこまでも現実に釘付ける。

 そうした、前作群にくらべて抽象度の度合いが恐ろしく低くなった美術・カメラ・小道具の構成する現実の中で、ただブルース・ウェインの暴力的な蕩尽ぶりが異様な輝きを放つ。そして、バートンにおいて「フリークス」としばしば形容され称揚された残酷なファンタジーのキャラクターは、「変態の金持ち」という猛烈に下世話なレベルに引きずり降ろされるのである。これは夢ではない、現実だ。そうノーランが叫んだとき、バットマンはフリークスから変態になったのである。その境界線が限り無くあいまいであるどころか、実は同一であり、紙一重である、という言い方もできるが、しかしやはり言葉に対する幻想は大事にしたいものだ。フリークスは「切なかった」が、「金持ちの変態」はただただ面白いのだ。つまり、この映画は傑作であるかもしれない、ということである。バートン版とは別の意味で。