ゾディアック(続き)
[id:Projectitoh:20070702#p1]からの続き
というわけで、世界精神型の悪役を設定し続けるフィンチャーの監督作の際立った特徴というのは、ひとえに視覚化された世界精神を前に、徹底して無力な人間達を描くという構造を繰り返していることだ。
「セブン」でモーガン・フリーマン演じるサマセットがブラッド・ピットに言う。われわれ(刑事)は、ただ証拠品を集め、証言を集め、整理してファイルし、あるかもしれない裁判を待つだけだ、と。「セブン」はただ、ジョン・ドウが死体を使って描き出す世界像の現場を、刑事達がひとつひとつ見てゆくだけの映画だ。あの映画にアクションは無い。主人公達が物語を動かす余地はゼロだ。物語は世界精神たるジョン・ドウによってすでに用意されており、主人公達はそれを見て観客に報告する狂言回しとならざるを得ない。主人公らは単なる観察者でしかなく、「世界」に関わろうとしても世界はただ見つめることだけを強要し、見つめることで主人公達の人生はねじまげられてゆく。
「ゲーム」「ファイト・クラブ」もまったくそのラインを踏襲している。雇われグダグダ仕事だったエイリアン3ですら、エイリアンというどうにもならない呪いが主人公達を蝕んでいく物語だったのだから(そういう意味では、「パニック・ルーム」というのは本当に例外的な、理解しがたい作品である、とは言える)。
ソディアック、ではちょっとしたレイヤーの違いがある。この映画において世界意思は、ジョン・ドウさんやゲーム会社CRSさんや、我らがタイラー・ダーデンさんがそうであったような名指しできる存在ではない。「ゾディアック」に於ける世界精神はゾディアックさんではないのだ。それはとてもとてもちっぽけでへぼい人であろうゾディアックさんがきっかけになって拡散した「状況」であり「社会」だ。
そう、やはりこの映画の主人公達も「セブン」と同じだ。彼らは、ただ見つめるしかない。起こった状況を見つめ、証拠を集め、意味を見出そうと苦闘する。しかし、その核には決して手が届くことは無い。ただ「セブン」と異なるのは、主人公であるグレイスミスが、自らその状況にはまり込んでゆくということだろうか。
「世界」を前に、人間はいかにも小さい。世界が悪意として立ちふさがったとき、人間の人生はいともたやすく捻じ曲げられてゆく。フィンチャーはたぶん、これからも「世界」の圧倒的な悪意を前に見つめるしかない人間達を描くのだろう。ぼくらが映画を見つめるように(というか、フィンチャー映画における主人公って、常に「観客」のアレゴリーなんだよね)手遅れの季節[id:Projectitoh:20060922#p1]、の気分を9.11が起こるずっと前から、そしてこれからも描き続ける。あくまでオフビートに。ぼくは、そんな気分にとってもしっくりくるのだれど。