「ゾディアック」

「傑作だけど地味」「傑作だけど長すぎ」「傑作だけど寝る」

そんな評判を至るところで目にしてから赴いた映画館。いい映画なんだが地味で淡々・・・とはいえ、ぼくのフィンチャーに対する印象って最初(「エイリアン3」)から、オフビートな時間をだらだら垂れ流すひと、だったので、あまり気にはならなかったのだけど。「セブン」って時間の流れも物語りもすごく弛緩した映画だと思うし(理由はある)、あの傑作「ファイト・クラブ」にしたって、編集のリズムはフィンチャー特有の「ダラダラ進行」だったと思う(たとえば「ファイト・クラブ」をダニー・ボイルあたりが撮ってたら、もっとガンガン進行型ポップ映画になったんじゃないでせうか)。

でもまあ、上映時間約2時間40分とか聞くと、さすがに「フィンチャーのダラダラ進行を160分は流石に辛いかも……」と自分も構えてはいたのです。いま体調的にもアレだし。で、映画が始まったのだけれども……。

なんだよこれ!ぜんぜんダラダラしてないよ!いままでのフィンチャー映画で一番キビキビしてんじゃない?すっごく楽しいよこれ!

いやいや、全編万遍なく楽しめてしまったですよ。もうちょっと長くてもよかったくらい。寝る暇なんてまるでなかったし。その前に「300」を見て、ハシゴでこれ見たにもかかわらずですよ。期待しまくっていた「300」は、期待値が高すぎたのか、ちょこっと退屈してしまった(いやまあ「すげえもん見たなあ」とは思いましたけどね)んですが、その後に見た「ゾディアック」は、もうなんというか、完璧。こういう、すべての場面が万遍なく楽しい映画って、最近なかったなあ、とかなり充実して映画館を後にしたことですよ。

とはいえ、作劇というか、テーマというか、映画の構造はいつもどおりのフィンチャー節。この人は基本的に同じ物語を手を変え品を変え語る、オブゼッションの強い作家だということですな。このゾディアックがフィンチャーの新展開だとはあまり思えない。この人がいつもそう描く人間の在り方を、この映画もまた踏襲している。

それは、世界精神(ヴェルト・ガイスト)に直面し、人生を捻じ曲げられ、それに抗うことかなわぬ人間たちの姿だ。

世界精神型の悪役とは何か。世界、とは我々の世界でもあり、また映画の説話全体でもある。そして映画を監督が支配する(ということにしておいてください)以上、世界精神型の悪役という言葉は、監督が創造した世界の代弁者もしくは映画そのものの演出家という審級を与えられることになる。映画そのものを演出する映画内キャラクター。つまりは映画内における監督のキャラクター化だ。

そのわかりやすい例はというと、やはり「パトレイバー」シリーズの帆場と柘植だろう。帆場は或る「風景」を見せつけ、しかる後に別の風景を現出させる「東京に対する悪意そのもの」だ。帆場は映画における憎悪として純化された階梯へステップアップすべく、映画冒頭で自殺し、キャラクターであることすらやめてしまう。

「2」の柘植もまた、世界精神型の敵役だ。よく柘植の目的を「平和ボケした日本に『普通の国になれ』と目を覚まさせるために」なんておポンチな勘違いをしている人がいるけれども、それはぜんぜん違う(まあ、普通に映画見てればわかるようなもんだけどね)。柘植の目的は、劇中でも語られている。東京という空間に戦争という時間を現出させること。都市を舞台に戦争を演出することだ。人々の前に、日常とは異なる時間を描き出すこと。それこそが目的なのだ。それをすることで政治的にどうこう、とか国民意識を変えよう、とかヘボいレベルに柘植はコミットしない。それは演出家では無いからだ。

世界に認識の変革を迫るヴィジョンを演出することで、ある事物の本質を抉り出すことそのものを目的とし、どんな現世利益的な欲も動機や目的にはしない、そんな悪役。世界を支配するのでもなく、政治的な目標を達成するのでもなく、金をもうけるのでもなく、ただある世界観を「われわれ」の世界観に暴力的に上書きする時間を演出する、それだけを目的とした悪役たち。それが「世界精神(ヴェルト・ガイスト)型」の悪役(というか、敵役、と言ったほうがいいのかもね)だ。

この種の悪役は日本の映画やアニメにはけっこう多い。黒沢清の「CURE」なんかもそうだし、ちょっとポジションは異なるが「ローレライ」の浅倉大佐なんかも同類に入るだろう。なんかごちゃごちゃしてきたけれど、ぶっちゃけて言うなら「この人が言っていることは作品の作り手が言いたいこと(の一部)なんだろうな」と思えるような悪役であれば、大体このタイプだ。

ある物事を主人公たちに見せつけることそのものを目的とし、その見せ付ける過程が映画になってゆく、そんな悪役を「世界精神型」と呼ぶ。

で、実はアメリカ映画にはこの種の悪役が皆無に近い。大体が金と権力でウッシッシに留まる。まあ、こういう身も蓋もなさのほうが現実的ではあるのだし、どっちの悪役が優れていると比較したいわけじゃないんですが、単純に、世界精神型の悪役はアメリカ映画にはほとんど存在しない。大体、同情してしまう悪役そのものがほとんどいないのだから。たとえば「ザ・ロック」のエド・ハリスにしたって、義賊的描写はされているものの、結局悪いのは彼じゃなく、欲に目がくらんだ下っ端、ブラックホーク・ダウンにも出てたアゴ君ことグレゴリー・スポールダーということに最後はなってしまう。「ダイ・ハード」は一見バーダー・マインホフみたいな西独系極左と見せかけて実は単なる強盗、だったりするし、最新作の「4.0」にしたって最後はやはり金だ。

そんなアメリカ映画でフィンチャーが例外的なのは、ひとえにこの「世界精神型」の悪を設定し続けるという点による。

(書き途中。今日は疲れた)