Watch the world burn.
そうとも!
「バットマン:アーカム・アサイラム」
教会のなかじゃ、ゲスな事を想像しろ!
ホワイトハウスにゃ、正直さを教えてやれ!
会ったこともない奴に、
使われてもいない言葉で手紙を出せ!
子供の額にゃ、ヒワイな文句を書きなぐれ!
クレジットカードを捨てて、ハイヒールを履け!
精神病院のドアは開いてるぜ!
お上品な郊外を、殺人と強姦で埋め尽くせ!
聖なる狂気よ!
快感よ満ちよ!あらゆる街路に!
笑え、そうすりゃ
世界も一緒に笑うぜ!
「パトレイバー2」以来だろうか。
これほど自分の魂にぴったりくる映画は。
他の人がどうかは知らないけれど、フィクションという手段で自分は何が観たいのか、という自分が抱いてきた「気分」に、かなり精度の高い答えを提供してくれる種類の映画だ。
バートン版のジョーカーはおとぎ話の人物だった。というよりも、バートン版のバットマンはおとぎ話として作られていた。ニコルソンのジョーカーは何だかんだ言ってかわいげたっぷり、結局のところ邪悪な子供でしかなく、しかしそれこそがバートンがフリークスに注ぐ優しい視線でもあった。
しかし、前作で示したようにノーランのバットマン映画は、フィクションの塊みたいな「バットマン」という存在を、どこまでも現実にくくりつけようとする試みから出発している。そして、ビギンズに関して言えば、それは無残に失敗したと言わざるを得ない。いや、失敗したとは言い過ぎか。様子するに、アメコミのスーパーヒーローという子供向けのフィクションを、地味に、現実に縛り付けて描こうという試みは、たとえば終盤のモノレールのあからさまな特撮空間的中途半端さと相まって、つまらくなくはないが面白くもない、どうでもいい映画に成りはてていた、というのが正直な感想だ。
つまり、この映画は傑作であるかもしれない、ということである。バートン版とは別の意味で。
バットマン ビギンズ
とわたしが書いたのは、勿論冗談としてであって、文全体からはこの映画に対するどうでもいいやという感じが伝わっているのではないかと思う。
しかし、前作の「バットマンを現実にくくりつける試み」がこの「ダークナイト」を準備するための退屈だったとするなら、もう何もかも許し、受け入れてやりたい気持ちになるのだ。あの「ビギンズ」は、この「ダークナイト」を生み出すことが、その唯一の存在意義だったと言ってもいい。
この映画は、それほどの価値がある。
以前、「ゾディアック」に関する文章で、自分はこう書いた。
ある物事を主人公たちに見せつけることそのものを目的とし、その見せ付ける過程が映画になってゆく、そんな悪役を「世界精神型」と呼ぶ。
「ゾディアック」
で、実はアメリカ映画にはこの種の悪役が皆無に近い。大体が金と権力でウッシッシに留まる。まあ、こういう身も蓋もなさのほうが現実的ではあるのだし、どっちの悪役が優れていると比較したいわけじゃないんですが、単純に、世界精神型の悪役はアメリカ映画にはほとんど存在しない。
そう、このときの自分はすっかり忘れていたのだ。アメコミというジャンルの存在を。スーパーマン、スパイダーマン……「スーパーヒーロー」という「善」を描かなければならないが故に、映画界よりも、小説界よりも、どのジャンルよりも、その「ヒーロー」に対立させる「悪」という表象について、不断に思考し続けてこなければならなかった特異なジャンルを。
そう、アメコミにはジョーカーがいたのだ。
レックス・ルーサーよりも、ヴェノムよりも、誰よりも有名で純粋で豊かな「悪」が。世界を演出する劇場型の悪役が。人々の倫理の上にある価値観を暴力的に重ね塗りして消し去ってしまう、「作品の意志」を形象化したヴィラン(悪役)が。
それはアメリカが生み出した希有な「狂気」の表象。
"Let the feast of fools begin.(愚者の饗宴を始めん)"
「アーカム・アサイラム」
の掛け声と共に、世界が巨大な精神病院であることを実証する「20世紀末の都市生活に適応した、かつてない認識体系を備え」た、「従来の常識を越えた『正常な』人間」。
「キリング・ジョーク」「アーカム・アサイラム」「ダークナイト・リターンズ」。80年代以降出てきた、暗く陰鬱で、時代の臓腑を抉るようなバットマン作品群のジョーカー像を描くことを、公開当初「ダークナイト・リターンズの影響下にあるすばらしい作品」と賞されたバートン版のニコルソン・ジョーカーも、実はこの「80年代以降のジョーカー」の豊かさ、というか、全き悪意を、全面的に導入したわけではなかった。いま「バットマン」を見返すと、ニコルソン版ジョーカーは前述のように子供の邪悪さの延長でしかなかった。そしてこれもまた前述したように、ティム・バートンの疎外者への優しさから生まれた描き方でもあった。
しかし、この映画でノーランは恐らくバットマン映画史上はじめて、アメコミで描かれてきたジョーカーの本質を臆すことなくスクリーンに映し出すことができた。この映画はそこまでジョーカーを生かすことができている。「常識を越えた正気」に世界が揺れ動く瞬間をフィルムに焼き付けることに成功している。
この映画のジョーカーは悪意そのもの、人間の心理のどぶ底を浚ってくるクズ拾いのような世界精神(ヴェルト・ガイスト)型ヴィラン、金や権力など目もくれず、ある世界に人々を誘うことそれ自体を目的とするタイプの観念型悪役、すなわち、
の系譜に連なり、その中でもジョーカーは、上記の存在がどちらかといえば「社会」そのものをターゲットにしているのに比べ、心理の集合体、個の集合体としての世界を抉り、新たな世界観を観客に見せつけるどぶ底の狂言回しとして描かれている。世界が巨大な精神病院であることを、だれもが狂っているのだということを実証する「20世紀末の都市生活に適応した、かつてない認識体系を備え(アーカム・アサイラム)」た、「従来の常識を越えた『正常な』人間(同)」。
この映画でブルース・ウェインの執事アルフレッドは言う。「悪党の中には、金めあてなど理屈で判る動機が無く、世界が燃え尽きるのを見物したいだけの奴もいるんです」と。
この映画のなかでジョーカーはあたかも心理というゲームをプレイするかのように、様々に人間のこころを崩す状況を仕掛けてくる。ジョーカーは状況を用意する。前作のラーズ・グールのように悪徳都市の象徴であるゴッサム・シティを崩壊させようという明確な目標はない。ジョーカーはある状況を生み出し、それが永遠に続くことを望んでいる。劇中でもジョーカーはバットマンがいない世の中はつまらない、と言い、バットマンに危機をもたらそうとするある人物を抹殺しようとさえする。
ジョーカーは知っているのだ。秩序に身を置きながら自警団として秩序を破らざるを得ない矛盾を抱えたバットマンと、世界がカオスに叩き込まれるのを心の底から望みながら、秩序という世界の枠組みそのものが崩れてしまうと「ゲームを楽しめなくなる」という矛盾を(楽しそうに)抱えた自分が、ともに化け物、コインの表裏であることを。
ジョーカーは人間の負の面を露わにする装置として、ゴッサムの夜を踊る。
そして彼は準備する。退屈で醜い秩序をどのようにして揺るがすかを。
これほどの大予算映画で、これほどの作品を作ることができた奇跡、すなわち「贅沢な悪意」に浸りたいのだったら、この映画一本で今年は充分だろう。とくに、かつて帆場と柘植という希有な世界精神型悪役を描いた押井守が「『テロリスト』という言葉の意味が変わっちゃった。もうテロリストの映画は作らない(「真・女立喰師列伝」映像特典インタビュー)」と言っている現在では。それは彼のある種の倫理でもあるのだが、現在のこの世界に対する『逃げ』であると言われても仕方なかろう。いや、押井は昔から「いま、ここ」であることを徹底して避けてきた(実は「パト2」「攻殻」ですらそうなのだ)作家でもあるのだが。
押井がテロリストを描かないと宣言しても、我々にはジョーカーがいる。たぶん、これからもジョーカーがいれば充分かもしれない。世界精神型悪役が、これほどまでの大舞台できらきらと輝いているさまが観られる映画など、これからも当分現れそうにないから。