ウェス・クレイヴン「カースト」(仮)

吸血鬼、ミイラ男、ゾンビ、などに比較した場合、狼男なる題材の映画における困難さは明らかです。すなわち、狼男はつまるところ畜生でしかなく、人間を圧倒し恐怖に叩き込むメソッドを馬鹿力と卑しい顎しか持ち合わせていません。感染力、というファクターも後年追加されましたが、その程度はゾンビですら有しており、しかも牙という伝染の媒介が狂犬病その他の猛禽による疫病と大差ないため、それは「自然にはまあ、んな生き物もいるかもしれんね」というごくごくつまらない感想に行き着いてしまうのです。

歴史からすれば、人狼伝説はミイラ男よりも吸血鬼よりも古く由緒ある存在のはずです。しかし、映画というメディアの物語の器として、狼男はあまりに使い勝手の悪いモンスターになってしまいました。ドラキュラや幽霊、ミイラ男は、「死と生の界面の往来」という恐怖界において圧倒的な威力を持つブランドを有しており、それは人が抱く「死」という観念の転倒をもたらすことができ、明らかに畜生に食い殺される恐怖より根源的性質を有しています。

では、エイリアンと狼男は同質なのか、というとやはり違います。狼男に比べて、エイリアンは「宇宙」という得体の知れないものを背負っているからです。いくらその襲撃が物理的性質によるものであるにしても、「完璧な有機体だ」と宣言された瞬間、その完璧さは宇宙というわけのわからないシステムによって保証されるのであり、やはり「死」と同様の根源的不安を観客に与えるでしょう。

翻って、狼男は生と死を異様な力によって飛び越える能力を持ち合わせてもいず、宇宙という「未知のシステム」の後ろ盾もなく、ただその「生まれ」若しくは「血」という人間とって実になじみ深い宿業に囚われざるをえず、ドラキュラ伯爵のように蝙蝠に変身して逃げ惑う人間の先回りをすることも、幾度もの蘇りによって人間の生死観を混沌に叩き込むことも、赦されていません。彼にできるのは、叩いたり、噛んだり、といったジャイアンレベルの暴力、いうなれば畜生としての腕っ節のみであり、月の満ち欠けはそれが生死と直結しないために怪奇趣味の香りを放つことはなく、いわば狼男のキッチンタイマーに過ぎません。銀という弱点ですら、吸血鬼の「水面を渡れない」「十字架」「ニンニク」といったアイテムの持つ不可思議が、逆説的に吸血鬼の「死との濃密な関係の取り結び」を強化する、という方向に働いたようには、狼男の神秘性をいささかも保証してくれず、結局のところ狼男は人間であることをやめた後は単純にデカイ狼でしかない、パワープレイで人間を殴り殺したりするのが関の山、という「怪奇」の香りから甚だ遠い低俗さをまき散らすしかないのです。吸血鬼や幽霊がそこにいるだけで恐さを醸し出すことができるのとは対照的に、狼男は人間でいるか狼でいるかしかなく、言うまでもないですが「狼が怖い」というのは恐怖映画の恐怖ではありません。

他の怪奇ブランドに比べ、狼男はかような困難を背負っているわけですが、ウェス・クレイヴンが久々に手掛けたこの新作は、ロサンゼルスという怪奇のカの字もない、下品なまでに様々な事象がむき出しになるあからさまな太陽の下で展開されます。「蝋人形の館」が「肉の蝋人形」を大いに改変し、全然関係ない「悪魔のいけにえ」を導入したのは、作り手が「怪奇」の近似値として南部の田舎という、おぞましさの残り香がまだ有効な土地を(日本でいえば近親婚がまだ続いてそうな横溝的田舎に相当します)選ばざるを得なかった、という理性的な思考の結果です。ある意味「現代のアメリカで怪奇をやる」ための、消極的ではあるが賢明ではあった選択なのですが、翻って、クレイヴンの「カースト」は、そうした欲望された「怪奇」をいかに実現するか、という試行錯誤を最初から放棄し、人間は堂々とマルホランド・ドライブで狼になります。

この映画は狼男を生命の危険として描くことのみに専心します。怪奇性は表現しようがないのです。ただしこれはすでに「スクリーム」で試行されたことの反復に過ぎず、怪奇であることやホラーであることを諦めた疑似ホラーとしてのサスペンス映画、というフォーマットを、今回クレイヴンは選択しました。暴れる以外に能がない狼男という困難な題材に接して、これはしごく当然の知性的な選択だったとさえ言えるかも知れません。

怪奇映画をモチーフにした建設中のクラブのデザイナー、を主人公クリスティーナ・リッチの周辺に配置しながら、その弟がスクールカーストの最下層に属する文系ボンクラであるという、退屈なまでに定石を外さないティーン映画フォーマットは、また「スクリーム」がそうであったように、そのクラブの内装を利用した怪奇映画への言及を行いつつ、しかし登場するのは単に力の強い獣であり、敵味方の配置すらも知り合い空間だけで完結してしまいます。悪役の動機はどうしようもなくヘボい人間のそれであり、狼男にはその程度が相応しいとでも言うように、人知を越えた世界はまっさらに排除されています。

この映画はすなわち、狼男という題材そのものの敗北を宣言する、自己言及的なサスペンス映画にすぎません。思えば「ティーン・ウルフ」という映画が可能だった時点で我々はそれを悟っているべきだったのですが、人狼伝説そのものの持つ歴史ゆえ、それと映画とのなれそめが不幸な婚姻であったことを認めたくなかったのです。映画としては手堅く、演出も外さないのですが、ホラー映画を作ろうとしながらも、恐怖を信じることの出来ない人々の告白を聞かされるような映画体験をあなたがどのように思うかは、私にはわかりません。恐怖にできることがまだあると信じたいのなら、「蝋人形の館」をいま見ておくべきでしょう。ダークキャッスル製作では、いままででいちばん志が高く、誠実な映画ですから。