グッドナイト&グッドラック

 時を刻む。時をカウントする。それによって「段取り」が進行していく。

交渉人 真下正義」のときも書いた気がするが、時間を秒単位で刻むという行為には、優れて映画的な興奮が宿っている。時を刻み始めたその瞬間から終わりまで、その時間はテンションという名のひりひりするような硬直状態に包まれる。時間が空間を拘束するといってもよいいかもしれない。刻まれた時間の中で、登場人物たちは時間という拘束具にきつく締め付けられると同時に、その時を告げる者は映画を支配する。

グッドナイト&グッドラック」のオンエア場面はそのような興奮に満ちている。ストラザーン演じるエド・マローが生放送で語るそのフレーム下で、クルーニー演じるフレンドリーが時を刻む。10秒、15秒、と。調整室の男たちもその時間に拘束される。「転べない」時間、段取りを狂わせることのできない、死守すべき時間。それを1秒単位で維持し続けなければならない男たちの職業的な戦いがそこでは繰り広げられる。

レッド・パージ、というテーマは勿論重要だし、それを現在の共謀罪やテレビメディアの没落と絡めてみるのもいいだろう。エリア・カザンがアカデミーで名誉賞を受けたとき、スタンディングオベーションのなかでひとり腕を組んで黙していたエド・ハリスの姿をぼくは忘れられない。だが、これはドキュメンタリーではない。映画なのだ。ドキュメンタリーとしてはどうだろう、などという者は愚かである。あなたは映画館に一体何を見に来ているのか、と。我々は歴史の勉強を映画館にしにきているわけではない(アメリカ人は映画を通じてしか歴史を知らない、と誰かがいってたけれど)。

この映画は赤狩りの時代、それに抗した勇気ある男たちの物語ではある。であると同時に、この映画は「仕事」が進行する様を映し出した「職業者たちの映画」でもあったりする。わかりやすいところでいうと「アポロ13」のヒューストンだ。NASA管制室の男たち。ぼくは、あの映画はジム・ラベル船長以下のアストロノーツを主人公にするよりも、飛行管制室の男たち、ジーン・クランツ主席管制官以下のNASAスタッフをメインに描いた方が遥かに面白くなったはずだ、と思うのだけれども。

エド・マローの番組は生放送だった。テレビが圧倒的に生だった時代。あとから編集でどうにかする番組がまだまだ少なかった時代。そこでは「段取り」という名の残酷な神がテレビマンたちを支配していた。コケることは許されない。男たちは時間を刻み、尺を思い、段取りという名のデウスエクスマキナに忠誠を捧げる。

 つまり、これは「テレビが『画』になる(ちょっとメタっぽいな)」時代のテレビマンたちを映した映画でもあるのだ。収録とカジュアルどころではない服装が蔓延した現在のテレビ局ではなく、みながスーツとネクタイをしめ、現在とは比較にならないテンションで仕事をせねばならなかった時代のテレビ局の風景を楽しむ「職業者たち」の映画でもある。そんなに大フィーチャーはされてないけれど、オンエアの段取りやフィルムの扱いなど、見ていてけっこう楽しい。

 そうした中で描かれるエド・マローの姿は、ほとんどヒーローだ。いや、実際ヒーローなのだけれど、その私生活や人格を拾っていく映画ではない(まあいまだにそういうのをフックにしなければ映画を楽しめない人もいますが)ために、マロー(とその仲間たち)の行動のみがクローズアップされ、彼らが番組を制作していくその静かなテンション、服装、タバコ、すべての視覚的要素が

「かっこいい」

という言葉に奉仕していく。「スニーカーズ」では志村けんにしか見えなかったストラザーンが、中坊ならさしずめ「男ならこうなりたいぜおおお」とか唸りそうな史上最強にかっちょいいオヤジを演じている。つまり、この映画はヒーロー映画だ。「実在した自由の闘志のリアルで等身大の姿」という、よくあるパターンの映画ではない。ひたすらかっちょよく喋りかっちょよく働くかっちょいい志のかっちょいい男たちがかっちょよくタバコをふかす映画なんである。

そういう「職業人としての正統派ヒーローもの」としか思えなくなってしまったので、ストラザーンがオンエアの終わりにいう決まり文句「グッドナイト・アンド・グッドラック」が、ほとんど超人ヒーローの見栄切りというかキメ台詞に見えてくる。いやほんと。

とにかくかっちょいいオヤジどもがかっちょよく振る舞うオヤジスキーにはたまらん映画、なのだが、対するマッカーシーはどうか。この映画に登場するマッカーシーは当時のフッテージのみで登場する(へんな言い方ですが)ため、役者による吹き替えは一切ない。

これがまた、ヘボいのだ。実際のマローはストラザーンほどにはかっちょよくない(まあ当然ですが)のでフェアではないのですが、それにしてもこの映画のマッカーシーは悲しすぎる。あの小肥りっぷり、あの頭髪の悲しさ、あの容姿。すべてが「ヘボい男」という視覚的要素に残酷なまでに貢献していて、もしかしたらマッカーシーのあのビッグマウス赤狩りを別にしてもビッグマウス男だったわけなんですが)は、すべてそうしたコンプレックスからきたんじゃないかしら、という同情というか共感のようなものすらわき上がってしまうほどヘボくて、「ああ、マッカーシー、お前は俺だ」とか見ている間辛くてしょうがなかったことですよ。映像って残酷です、母さん。

というわけで、これで赤狩りの話とかメディアの在り方とか考えるのもけっこうです(実際、ラストのマローの言葉は、当時と現在のテレビの「変質」を思えば、あまり有効ではない『説教』以上ではないとは思うのです。いろいろな意味でメディアは昔ほど単純じゃなくなってしまったわけで)が、とにかくかっちょいいオヤジが見られる!ということを強調しておきたいわけですよ。