手遅れの季節

さて、まだ回復していません。めんどくさいことになりました。ろっ骨の中を見るために切開した脇の下の傷が、抜糸、というか抜ホッチキスの日になってびっくり、感染してました。化膿してくっついてないのです。

脇の下に突如出来た赤くぬらぬらした裂け目は、くらくらするほどエグい眺めです。手術したらこんなびらびらできてました・・・って気分はマリリン・チェンバースです。クロ師匠の脇の下にアレな裂け目が出来てアレな突起が生える映画(映画ファン以外の人へ:私が下品なことを書いているのではなくて、本当にそういう映画があるんですよ)そっくりの眺めです。私がいまどんな感じか知りたい人はレンタル屋に行って「ラビッド」借りてきてください。これでお茶の水に通院した帰りに「ヒストリー・オブ・バイオレンス」買ったら、削除されたシーンでエド・ハリスがろっ骨の中の内臓をむき出しにしていたので、シンパシーが湧きました。体の中身を外に曝して歩いても問題ないのですから、人間の体って頑丈です。

きょうも今日とて「24」。ピーター・ウェラー登場。ふ、老けた・・・。しかし、こうも拠点を襲撃されまくる対テロ機関というはいろいろな意味でどうかと。頭のいいチームリーダーが不在なので話が転がっているという、すごいドラマです。楽しいけどね。荒巻大輔かジョージ・コーレイがいたら最初の2話(つまり2時間)ぐらいで終わりそうです。

しかし、このドラマ見て思うのは、我々は「手遅れの季節」に住んでいるのだなあ、ということです。

かつてのドラマや映画というのは「なんとかして守りきる」話だったわけです。いまでもその基本線は変わらないのですが、昔と違うのは、「大犠牲」は抑えるものの「中犠牲」は許容する、という作劇が普通化してきているということ。このシーズン2では核が炸裂し、シーズン3では生物兵器が解放され、シーズン5はごにょごにょ。

昔だったらシーズン3のバイオテロ被害(すごい数死にます)は、現実とのリンクをある程度まで重視するフィクションでは完全にアウトだったわけです。しかしこの「24」はわりとドライに無辜の民間人が両手単位で犠牲になっていきます。かつて「七人のマッハ(ファンタ上映時タイトル「ボーン・トゥ・ファイト」)」を見て、いやー、すごいねー、こんなに人質を大事にしない映画ははじめてだねー、とか書きましたが、いまにして思えば、ずいぶん楽観的なものを書いていたものです。あれはアジア特有の人命感覚なのだ、と正直なところ私は思っていたのですが、この「24」を見ると、かつてフィクションではリアリティの埒外だった「めっさ人が犠牲になる」という感覚が、アメリカ本土ではとっくに「物語許容リアリティ」として受け入れられていることに気付かされます。

と、このメガデス許容フィクションはいつからはじまったのでしょうか。9.11?

そう言ってしまえば、構図はずいぶん楽になるのですが、いまや世界のあらゆる構図が9.11をマザー・オブ・カタストロフにして結論づけてしまう傾向があり、私はあまり好きになれません。もちろん、さかのぼれば切りがないのですが、私はこれ、明確に始まったのは冷戦の終結に伴う、「ピースメーカー」「トゥルーライズ」に代表的な「核があっさり炸裂してしまうフィクション」あたりを母とするのではないかと思うのです。

核は今や、人類の生み出した最もおぞましいものという神棚から、通常兵器の座におろされつつあります。テロの頻発による大量死の遍在が、死者の数字に対する我々の感覚をおおざっぱにしつつあるのと、これはたぶんリンクしているのでしょう。我々は大量死の時代に生きている。大量に殺したり、大量に殺されたりする世界に。

決定的なところで、我々は何も止められない時代に生きているのではないか。実はスーパーマン・リターンズを見て感じたのも、そんな気分でした。我々は「手遅れの季節」に住んでいる。9.11を描いたとされる「ユナイテッド93」もまた、そうした「手遅れの季節」を語る物語だったのではないでしょうか。決定的な瞬間から、我々は疎外されている。それは何処とも知れぬ場所、何時とも知れぬ時間で起こり、それをとめることはできない、という。

ところで・・・唐突にクレイグ・トーマス・ハウエルが登場したぞ!なんだこれは!ローラ・パーマーのお父さんも副大統領として登場だ!まあファーストでもデニス・ホッパー出てたけど(ちなみにホッパーの息子役は「ハンニバル」のコーデルや「ブラックホーク」のハレル大佐やってた人だ)