亡国のイージス

亡国のイージスは危険な映画である。

というよりもギリギリの映画であると言ったほうがいいのかもしれない。どのへんがギリギリかというと、「よく見ろ日本人、これが戦争だ」という台詞でも、先守防衛について語る寺尾聰でもないし、右とか左とかいった政治的な舵取りの話でもない。

この映画の何がギリギリか。それは「亡国の盾」なる論文だ。

その論文自体は、実は論文というよりは社会科の感想文に近いものではあるが、それは重要ではない。重要なのは、この論文が語られるとき、そこに何が映し出されていたか、いや、そこに何が映し出されていなかったか、である。

よく見ろ、日本人。これが亡国だ。

そう、この映画にとって亡国とは秋葉原であった。いまや「電車男」「Aボーイ」などと世間の持ち上げ激しい秋葉原であるが、この映画が「亡国」として映し出したのは、ほかならぬその秋葉原であった。歌舞伎町でも渋谷でもなく、秋葉原なのだ。画面に秋葉原が映し出されたとき、いたたまれぬ思いを劇場で噛みしめたのははたして自分だけだったのだろうか。それはまさに自分の部屋が世間に曝された瞬間ではなかったか。「趣都の誕生〜萌える都市アキハバラ」にも書かれていただろう、いまやアキバは一個の巨大な個室と化した、と。

これが、この「亡国のイージス」がギリギリの映画であるという証拠である。阪本順治が正気でこの映像を撮り得たものか、自分にはわからない。この場面を5年後に見たとき感じるであろう感情を、例え話で想像するならば、「日本人は堕落してしまった・・・」というナレーションに被るパラパラを踊る顔の黒い少女たちの映像、という正気の人間には正視できない、それこそ「唯一のイデオロギーであった恥の感覚」を捨て去らなければ見つめることがかなわぬ映像、にかなり近いだろう。この映画に映し出された秋葉原メッセサンオーの前だったか、ソフマップの前だったか、それは重要ではない。個人的にはメッセサンオーの前だったように思えるが。

阪本順治の映画における空間の切り取り方はストイックで、ほとんどがフィックスかパンで処理される。会話も、会話している人物をフルサイズもしくはそれに近い構図で同時に収めてワンカットで処理し、話者のアップを拾ったりすることはあまりない。ゆえに、阪本映画においてカメラが前進するとき、それは映画全体から見事に浮く。突出した、異様な印象を与えるカットになるのである。そのいちばん分かりやすい例が「KT」で金大中が誘拐されるホテルの廊下を映す一連のカットだ。天井すれすれを無言で前進するカメラの異様さは、あの映画の中で見事に機能していた。

亡国のイージス」においてカメラが前進するとき、それは物語が動き出す予感に満ちた、「亡国のイージス」の中で最も興奮する場面、FTGの連中が「いそかぜ」に乗り込む場面である。ここで、なにやら怪しげなものを艦に持ち込むFTGたちが描かれるが、カメラはそこで唐突に中井貴一の主観となり、甲板を前進するカメラとなる。士官たちが敬礼し、乗員たちはカメラを、つまり主観者をよけてゆく。ここぞ一発、という決定的な瞬間にカマされる、阪本順治最大値のケレンである。

しかし、カメラが前進するカットがもうひとつ私の記憶に残っていて離れない。それが「守るべき国の形も・・・」という切実な台詞に被って映し出される、萌え萌えランド秋葉原メッセサンオー横である。この萌え萌えしいオーラに満ちた街を前進するカメラが、この国が亡国に瀕していることを告げているのだろうか。この映像が展開しているあいだ、私には下部に「※これはイメージ映像です」というテロップが始終見えていた。あのトニー・スコットですら「メキシコは誘拐花盛りで危険な街です」というのを冒頭数分で簡潔にさくっと「映画的に」提示できていたというのに、この映画はそれをやらんのである。なぜか。

可能性は二つある。つまり、「ゴジラ対ヘドラ」のゴーゴーがどこまでも本気であったように、この風俗描写もまたどこまでも本気であり、ここまでNHK的に凡庸なイメージカットを重ねなければならなかったゆえに、そんなヘボい、「映画的」という言葉から限り無く遠い手法を使わなければならなかったがゆえに、逆説的にそれは作り手たちの追い詰められっぷりを表しており、ゆえにこの映画はギリギリなのだ、という可能性だ。

しかし、ここで阪本順治の聡明さを信じたい私は、もうひとつの可能性を考えたいのである。つまり、「亡国」は写せない、という阪本順治の意思表明である、という可能性だ(そもそも、阪本順治自身がうすっぺらい「亡国」の観念をまるっきり信じていない、ということが考えられるが、あまり関係ないので深くは触れない)。

現実の社会が「亡国」かどうか、というのはここでは関係ない。要するに映画にとって「亡国」とは何か、ということだ。この映画は「亡国」に対する映像の無力さ、というか畑違いさをさらけ出しているのである。つまり「亡国」なんて写せっこないのである。だからこの映画は秋葉原を写し、工業地帯を写すしかなかった。

「亡国」は映らない。しかもその「亡国」を語る青年は死者であり、彼が亡国という観念について思いめぐらした思考を肉体として写すことも不可能だ。死者の語る映像にし得ない観念。その「不在の中心」に置かれたのが「秋葉原」だというのはまったくポストモダン的な象徴と言える・・・わけねえだろ。

大体、原田芳雄を総理大臣にキャスティングするという時点で、この映画の作り手のスタンスがはっきり見て取れるわけです。「亡国」なんて映らないモンは知らんが、人間は映るから気合い入れるわ。そういうこと。予想通り、アクション映画にはまるでなっていなかった(イージス艦って船的に見栄えしねえ〜、ってのがけっこうある。砲は細いしブリッジはローポリのCGみたいにカクカクだし)けれど、はっきりいって中井さん最高。この映画、キャスティングにスキがない。とくに国家安全保障会議のオヤジたちは見ていてホント飽きない、「いいツラ」が雁首揃えてて最高。