ソドムの市

 仕事がなかなか抜けられずに、しかもウェブでユーロスペースのページみたら今日が最終日でやんの。しかしそんな事情はおかまいなしに仕事はあるわけで、結局赤坂を1840時に出る。上映は1900時。20分で渋谷?ちょい無理かな〜、でも「映画の魔」で「(テレビでオンエアされる)CMでズダズダになった映画」を見ることを「映画本来の姿を確認すること」と言い、「ワンシーン、ワンカット」ならぬ「ワンカット、ワンシーン」について憑かれたように語る高橋洋の映画なのだから、途中から入っても問題ないだろう、とか考えて到着。この時点で1910時。すでに上映時間は過ぎている。

 が、ふと思い出しユーロスペースの1Fにあるアニメイトで「ヘルボーイ〜妖蛆召喚」を買う。中々見つからずここでも時間をロスト。ユーロスペースアニメイトが同じビルの1Fと2Fを有していることにいまさらながらおかしみをおぼえる。両方使う客もそういないだろう。俺は使うが。

 というわけで入る。ユーロスペースは障害者が1000円なのでうれしい。見るとなんと最終日につき舞台挨拶。映画始まってないでやんの。俺の「高橋洋の映画を本人の著した本の欲望に基づき途中から見る」といういささか歪んだ遅刻の自己正当化はここで崩れる。シット。高橋洋が胸に「映画番長」と名札のついたガクランを着せられている。なんなんだこれわ。

 で、映画なのだけど、「自主映画」「プロの仕事じゃない」「B級」とかいろいろ言われていたし、私は「刑事まつり」で「アメリカ刑事」を見ているので、そんなにリッチなもんを期待していたわけではないのですが

 すんません、これフツーに面白いんですけど。

 まあ、確かにいろいろと安い映画ではあるし、その安さを隠すなどということに払う智恵も勇気も労力もこれっぽっちもない、そんな下らないことに才能を使うよりも映画ってもっと面白いことがあるだろう、という態度は、まさに自主映画のそれだ。が、高橋は脚本家としてはプロなわけで、頻繁に炸裂するギャグが観客を飽きさせないようになっていて、とくに「キンタマ拷問」ギャグは本当に笑った。

 しかし、ギャグというのは照れ隠しというか作品そのもの、作り手の意図そのものを相対化してしまう効果もあるわけで、それがこの映画にとって幸福なのかどうかは、ちょっと判断しかねる。この映画には間違いなく「怨み」のような(怨念、とは違う・・・なにか立ち上る正体不明のモノ)感情もあるからだ。安い安いいっときながら、タイトル・ロールソドムの市の座頭市アクションは正直あざやかに決まっていたし、最後のミニチュアの安さを隠そうともしない東京○○○場面は、その安さゆえ逆に「怨み」のようなオーラを画面から放っていたではないか。

 また、「映画の魔」を読んでしまっていたのがいけないのかも知れない。この本を読んでいると「ソドムの市」に込められた妄想の力は、ある種の了解できる枠内に収まってしまうから。言語として了解されたもの、をスクリーンで再確認する作業に「望まずして」陥ったという僕自身の個人的な困難さが見ているあいだ厄介で厄介でしょうがなかった。本来それ自身が妄想のもつ原始的な混沌、映画的な混沌として受け止められ、大いに混乱し、あるいは腹を立て、あるいは勇気づけられるはずのものが、「映画の魔」という書物を前提としてこの映画を見た場合、その力をいささか弱めることになってしまうのだ。これは本を映画が越えられなかったというか、言語が映画を先行してフレーミングしてしまった窮屈さというか、そんなものが見ているあいだずっとつきまとっていたのだった。ああ、マブゼね、という、その種の了解がものすごいバインドになってしまうのだ(もちろん、その了解で映画自体は終わらない。むしろマブゼであるところから映画は始まるのが幸福なのだけれども、そうは転んでくれなかったのだ)。

 自分の映画について語りまくり、それを商売にすらしている押井守の映画が、皮肉なことに監督の語っていることの注釈になっていない、監督の意思を無視して存在する無気味なシロモノとして立っているようには、この「ソドム〜」は「映画の魔」という書物から離れられなかった。というのがいささか残念ではありました。

 とはいえ、面白い映画ではありました。ギャグに相対化されそうになる寸前で、妄想がそれを圧倒してゆくような、そんな揺り戻しが交互に来る奇妙なブレがたまらん。