肉体の天使

 って三島の本だったっけ、慎太郎@現都知事の三島伝だったっけ。

 まあ、んなことはどうでもいいのですが、パッションの残酷描写は「ブレイブハート」「顔のない天使」というメルギブのフィルモグラフィから見ると、すげえ自然な気がするのですが。単なる「手クセ(作家性、と体よく言ってもいいけど)」というか。宗教的動機とかそれ以前の問題のような。

 あのひとは、たぶん、映画というものを知っている。登場人物の心理が画面に映る、という神話を(そんなに)信じていない。だから「見ればわかる」肉体を執拗に描写するんじゃないかなあ。「気持ちが伝わってこない」「感情移入できない」「心理描写が軽い」などという、お前らは「視る」という純粋な歓びや感動をどこに置いてきたんじゃこのボケェ!と言いたくなるような、最近の映画・観客双方の人間偏重・心理偏重に、ある意味勇敢に立ち向かっているというか。だから視覚として表現できるものに特化した、ある意味「正しい(政治的に、ではないけれど)」映画を作るんじゃないだろうか。でなきゃ、「顔のない天使」で主人公の顔が焼けただれているべき理由なんて、どこにもないもの。
 あの人はたぶん、肉体を通じてしか、表現をする気はないんじゃないかな。
 それと映画としての出来のよさはまた、別だけど。
 特定の宗教を持たない人間が多くを占める日本だからこそ、「パッション」という映画を、特権的なポジションから語る立場がある、と思うのだけれども。ユダヤ人問題とか、そういうのはあちらさんに任せておくべき。絶対に実感し得ない関係性に、おせっかいを焼くのは失礼だ。
 この映画を受容するに際して日本で必要なのは、おそらく「パッション」をクローネンバーグやJ・G・バラード、養老孟司とかと併置して語れるフィールドだと思うのだけど。