ディカプリオの顔の物語

 役者の顔が、映画の物語と幸福な関係を取り結ぶことがある。

 南ア出身の傭兵、という設定を聞いたとき、あれれ、と思ったものだ。「ブラッド・ダイヤモンド」。ディカプリオが傭兵ですか。私はどうも、ディカプリオの「髭つき」の顔が好きではない。「ギャング・オブ・ニューヨーク」に「アビエイター」。スコセッシが何を考えているのかさっぱりわからないのだけれど、なんでこんなベビーフェイスにスコセッシは髭をつけたがるのか。はっきり言って、ぼくにはそれらの役の髭がドリフ並みの付け髭にしか見えない。いやもちろん付け髭は付け髭でかまわんのだけれども、映画の中で髭をつけた彼の顔は、まるでコントだ。髭がまるで顔になじんでいない。

 これはひとえに、ディカプリオの童顔の特殊な性質によるものではないか、と思う。ディカプリオが髭をつけると子供おっさん化してしまうのだ。そして、この映画の主人公であるダニーは、南ア出身の傭兵だったという設定だ。アフリカの「戦争市場」を潜り抜けてきた男が、無精髭ぐらい生やしているだろう事は容易に想像できる。つまり、この映画でぼくはまた、子供おっさんなディカプリオを見なくてはならないわけだ。

 序盤は、ものの見事にその予感がそのままスクリーンに映し出されてしまい、序盤のダイヤ密輸でジャーナリストを装ったディカプリオは、ずばりお子様に見える。まあ別に耐えられないことも無いのだけれど、なんでこの人はこういう自分の外見に合った役を選ばないのかね、とちょっと暗い気持ちになった。

 しかも監督はエドワード・ズウィックだ。この人は、リベラルだ何だいう以前に、生真面目な映画しか撮れない人だ。生真面目というのはどういうことか、というと、ユーモアは入れてもギャグは入れないというと分かりやすいかもしれない。この人はいつも異文化を扱い、その文化を個人的に消化した上で、常に敬意を持って扱う。たとえ異文化について勘違いしている部分があったとしても、それは決して面白おかしくしようとした結果ではない。あくまでズウィックは生真面目に、しかるべき敬意を払って、異なる文化を題材にする。これはたぶん、人として付き合うぶんには、理想的な人間だと言えるだろう。アメリカ人にもこういう人がいる、と思うと実に安心する。しかし、映画として付き合うとなると、こういう生真面目さや実直さや敬意は退屈へと容易に転化する。

 ラスト・サムライのニンジャ襲撃場面にしても、そこには何か、笑い飛ばしてはいけないような生真面目さが漂っていた。いやもちろん、日本人である我々は笑ってもいいのだけれど、なんというのか、あのアクションはこういってよければ、真面目に敬意を以って勘違いされたような雰囲気が漂っていて、他のハリウッド映画のキッチュな勘違いニンジャとは、明らかに違う何かがあった。ラスト・サムライはサムライそれ自体のもつオリエンタリズム(我々日本人にとっても、すでにサムライという存在はオリエンタルなものだ)な造形によって退屈を免れていたけれど、「マーシャル・ロー」のアラブ描写は、ズウィックの生真面目さがそうあるべき退屈をむき出しにしてしまっていた。ズウィックが敬意を以って描く異文化より、リドリー・スコットが描く、純粋に美術的、視覚的異様さ・美しさに特化した造形的な(ある意味で、敬意のかけらもない)異文化のほうが圧倒的に見ていて楽しい。

 そういう生真面目な人だから、ディカプリオも生真面目に演出される。髭は放置の方向で。

 この映画の骨格自体は、各所で指摘されているように、冒険映画の実に正しいフォーマットに則ったものだ。アフリカの白人傭兵、秘宝探検に危険な現地情勢が絡む。黒幕には英国が控え、植民地時代のこだまがそこここに響く。深刻なアフリカの貧困を扱った「告発」映画に見えて(まあ実際そうでもあるのだけれど)、悪役であるRUFのボスは冒頭で負傷して、隻眼ヒールになってくれるあたりの王道っぷりを見逃してはならないだろう。深刻な問題を扱いつつ、このあたりの王道を律儀にも骨格に据えるあたり(「マーシャル・ロー」もそうだった)も、やはりこの人は生真面目なのだなあ、と思わせてくれる。王道を描きつつ、その舞台が持つ問題は分かりやすく整理されて一通り物語に組み込むあたりも生真面目さを感じる。貧困、内戦、子ども兵、エグゼクティヴ・アウトカムズをモデルにした民間軍事企業(PMF)。この映画にはアフリカが抱える問題の代表的なものがひととおり網羅されている。

 そういうわけで、この映画はきわめて真面目につくられていて、何かが、映画として逸脱してしまうような瞬間を許さない。それは前述したように真面目さと敬意とバランス感覚の塊であるようなズウィックの生理の問題なので、それ以上をこの映画に期待するのがそもそもいけないのだ。いや、もちろんつまらないという意味ではない。冒険小説が好きで、アクション映画が好きな人間にはかなり楽しめる映画になっている。フリータウンの銃撃戦はすごいし、実機のハインドが低空をガンガン飛んで容赦なく弾薬を降らせるし、橋の場面におけるディカプリオのガンアクションはかなり痺れるものがある。ただ、まあ極端な例えだと断っておいてからあえて言うと、この映画はバーホー先生の「ブラックブック」がそうであるような、題材を超えて映画存在として突き抜けてしまう瞬間が皆無だと言っていい。繰り返すけれど、それはズウィックの生真面目さ故であって、けっしてそれ自体は悪いことではない。こういう作家も必要だし、時々は見たいのだ。

 ただ、そうした「生真面目な」映画の中にあって、ぼくが不覚にも感動してしまった瞬間があった。

 ダニー・アーチャーは語る。ローデシアに生まれた彼(ローデシアとは、ローズの家という意味だ。そしてローズとは、デビアス鉱山会社を設立したセシル・ローズのことだ)は、幼くして親を殺された。目の前で母はレイプされ、父は首を切り落とされた。そして彼は南アに逃れ、兵士となった、と。

 この話を聞いて、ぼくは不覚にも感動してしまった。悲惨な話の内容についてではない(この場面自体は、登場人物が自分のトラウマを語るというよくある場面に過ぎない)。それは、ぼくの勝手な思い込みかもしれないけれど、この瞬間、ディカプリオの童顔に無精髭を生やした、子供おっさんな顔が、感動的な意味を持ったからだ。

 そうだ、彼の時間は、そのとき止まったんだ。

 これはもちろん、ぼくが勝手に妄想しているだけなのかもしれない。ズウィックもプロデューサーもディカプリオも、そのあたりはまったく意識などしていなかったのかもしれない。それでもぼくは、はじめてディカプリオの童顔に無精髭が生えている違和感が、映画の中で、物語の中で意味を持って、しかもぼくに感情移入を促し、感動すらさせてくれたことに驚いてしまった。この感動は、仮にブラッド・ピットがキャスティングされていたら絶対になかっただろう。これはディカプリオの顔だからこそもたらされた感動なんだ。

 この映画ではRUFが少年兵に行う壮絶な洗脳過程が描かれる。恐れることを奪われ、愛することを奪われ、判断することを奪われた子供達。少年兵の悲惨については、有名なシンガーの「子ども兵の戦争」をはじめとして、いろいろな本が出ているけれども、この映画でもその教化がうんざりするほど描かれる。

 そして、ダニー・アーチャーの時もまた、子どものときに奪われてしまったのだ。かれの時間は、両親を失ったときに止まったのだ。ぼくはディカプリオの老けた少年のような顔を見ながら、感動していた。だから、ぼくはこの、生真面目な映画に最後までついていくことができた。「なあ、いますげえ風景を見ているんだぜ」最後の電話は陳腐だと思いつつも、ディカプリオの「顔」がもたらした物語との幸福な連携の前に、ぼくは斜に構える力を持てなかった。

 役者の顔が、映画の物語と幸福な関係を取り結ぶことがある。スターと呼ばれる人たちが、そのような関係を持つことは、あまりに少ない。

 だから、それを大作と呼ばれる映画で見ることのできたときには、本当に嬉しくなるものだ。