スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー

 予告編の素敵さでごく一部の人間に話題を呼び起こしつつも、公開前になると「話が御都合」「ストーリがだめ」などなどよろしくない評判が出回りはじめ、ああ、こりゃ期待しないで行った方がええんかいな、と思いながら見に行ったら隣の劇場は「いま、会いに行きます」なんかかかってたりして、そこには恋人たちが列を成していたりして、ひるがえって「スカイキャプテン」に入ってみれば、どう考えても世間に堂々と顔を向けて恋愛と仕事に励んでいる健康的なライフフォース、というやつが欠けまくったしょっぱい顔といでたちの野郎が何人かいたりして、いわばムジナーズ、俺と同類というやつなんですが、それがまばらな客席に点在している様は実存的な疑問というやつのトリガーになりがちなわけでして、気分はわりとどん底に近かったんですが、

劇場から出たときはとても幸せなきもちになっていました。

「(それっぽい要素を集めつつも)ツボは外している」「単なるファッションで本気じゃない」とか「ロケッティアは良かったなあ」とかいろいろ嫌な話を事前に聞かされていたんですが、俺に限ってはまるまるオッケーでした。

 確かに、興奮するような映画ではない。意外な展開があったり、思いも寄らぬパッションがほとばしったり、そういう映画ではない。「こういうの、好きです」という監督のスクラップ帳、それだけで構成された、すげえ後ろ向きな映画だ。だが、だが!後ろ向きってたら「となりのトトロ」だってどうしようもないくらい後ろ向きだ。そして、トトロの風景をほとんど憎悪しているといってもいい自分にとって、これこそが俺のトトロだ、と劇場で大声を上げたい気分になったのだけれども、恋愛とかクリスマスとかそういうものに背を向けたしょっぱいファッションのしょっぱいオヤジである俺様は気が小さいのでそんなことはしませんでした、まる

 スカイキャプテン、という名前にまず痺れる。なにせスカイでキャプテンだ。「デアデビルのデアってなんだ」「XメンのXってなんのXだ」「マトリックスってどういう意味だ」「自分の目で確かめろ」などという疑問の余地がない直球ヒーローだ。パニックでルームだったりファイトでクラブだったりするくらいストレートだ。しかもそのヒーローの名前が題名になっている。さらに追い討ちをかけるがごとく「ワールド・オブ・トゥモロー」ときた。ワールドでトゥモロー。微妙に国道沿いに看板が立ち並ぶ消費者金融の匂いが漂う単語だが、それぐらい馬鹿でもわかるというか馬鹿すぎる明るさに満ちあふれたタイトルだ。この時点で「ストーリーが」とか「御都合が」とか言っている人間は馬鹿である。スカイでキャプテンなどという題名がついた映画を見に来て、そのような文句を言う輩は八百屋で魚を求める阿呆である。スカイでキャプテンの時点で気が付け。場を読め。しかし制作者がわざわざ「スカイでキャプテンです。しかもワールドでトゥモローです。そういう映画です。そういうのが嫌いな人は観に来ないでください」と題名で親切に映画のコンセプトを観客に示していても、場を読めない不粋者というのが大多数をしめる世の中なので、そういう阿呆も出てきてしまう。

 そういう題名から、失われた未来への憧憬と、そのスタイルを題名にまで貫徹する頑固さと、そのスタイルがもたらす必然としてのユルさと、それが映画の中でいかに徹底されているかを読み取ることができれば、もう安心して劇場の椅子に身をまかせればいい。

 まず、のっけから「ヒンデンブルグ3号」と来た。3号ですよみなさん。ヒンデンブルグが3号まである世界、それがエンパイアステートビルに接舷するところから映画が始まるわけですよ。あの、われわれの世界では使われることのなかった(風が強すぎて使い物にならなかったんですよね)エンパイアステートの飛行船係留塔にヒンデンブルグが繋がれるわけですよ。1次大戦後、ドイツの飛行船が発達した世界を書いた「あの飛行船をつかまえろ」てフリッツ・ライバーの短編がありましたが、なんだかしみじみです。

 そして有名科学者失踪事件、という「わかっている」プロット。科学がプロジェクトと化し、個人の閃き「だけ」でなくなってしまったことを皆が知っている現在、「天才科学者」を誘拐して何かをたくらむ、というお話は消滅してしまっているのですが、それを堂々と採用している時代錯誤ぶりからも、この映画は現在なんてこれっぽっちも顧みる気はないんだ、ってことがわかろうというものです。それの事件を調査するのがこれまた新聞記者という現在はとんとお目にかかれないプロット。この映画は昔をうわっつらだけ取り入れてアップトゥデートするのではなく、とことん後ろ向きに、非生産的に組み立てようとしていることが、馬鹿でもわかるようになっています。本当に後ろ向きな映画です。私はその後ろ向きっぷりにほとんど泣きそうになりました。

 そして御存知フライシャーロボット襲来。この後ろ向きさはみなさん予告編で見ることができるのですが、そのロボットに蹂躙され、警察はなすすべがない。そのときニューヨークはどうするか。助けを呼ぶのです。「スカイキャプテンスカイキャプテン、応答せよ」と電波で助けを呼ぶのです。助けを求める電波が、電波塔から輪っかになって眼で見えるように描かれます。後ろ向きさはどんどん重症度を増してきました。こうなると後退ぶりはもう止まりません。この映画はどんどん映像的記憶の中へと埋没してまるっきり外へ出ることはない、と臆面もなく宣言しはじめます。でもいいのです。スカイなキャプテンでワールドがトゥモローという題名でわかりやすく皆に事前に説明してやっていたはずなのですから、それを読めなかった観客が悪いのです。

 スカイキャプテン。このP40を自在に駆るヒーローは、自前の秘密基地と軍団を持つ、傭兵部隊のリーダーで、世界中の難事件を解決している国際的英雄で、難事の際は各国がこぞって頼りにするという、これまた現在では到底許されない、だからこそ圧倒的に正しいヒーローです。自前の部隊を運用しつつも財源確保は無縁な、こういうヒーローは、われわれの国でいえば金田正太郎に代表的な「少年探偵」に近いものがあり、これまた私の心を熱くさせる設定です。

 予告編にはマンハッタンと海しか出ていませんが、この映画はパルプの匂いを網羅する「だけ」というコンセプトであるため、舞台はそれに留まりません。パルプといえば・・・そう、秘境です土人です。この映画はパルプに欠くべからざる要素である秘境を大フィーチャーしています。その秘境っぷりはサイードの「オリエンタリズム」も逃げ出しそうになるステロっぷりで、ネパールの人が観たら怒ること間違い無しです。さらにこの映画は文化的秘境だけでなく、恐竜の登場するような人外魔境(この言葉ももはや消滅しつつありますが)もちゃんと抑えており、一点たりとも前向きになってたまるか、という網羅ぶりでスキがありません。

 しかし、この映画でいちばんしあわせな気分になれたのはなんといってもジョリ姐演じるフランキー・クックRAF中佐。ユニオン・ジャックをデカデカとあしらった空中空母を率いての登場。潜水艦から発射される対空ミサイルに翻弄される空中空母の場面は、もうほんとうにほんとうに幸せいっぱいな気持ちでスクリーンを眺めさせていただきました。こいつらが世界中で戦う映画を俺は観たい。こいつらが主人公のスピンオフ映画誰か作ってくれませんか。

 さらに、登場するキャラクターの厚みのなさっぷりもまさにそうあるべき正しさで、ここで下手に人間を描かれたり感情移入させられたりした日にゃ「それ、違うだろ。パルプじゃないだろ」とゲンナリしたことでしょう。だが、この監督は自分が好きなものは何か、それを描くためにしてはならないことは何か、をはっきり知っているので、そういう色気や深さは注意深く賢明にも避けきっています。

 だから、それなりに気の効いていると思われがちな「カメラの残り枚数ギャグ」や「ヒロインの足手纏いっぷり」や「スカイキャプテンとヒロインの恋」もそのような後ろ向きの意匠として存在するのであって、それがたまたま観客にとってはこの映画で最大値の共有できる部分であろうから、かろうじて普通の映画のアクセントっぽく機能したにすぎません。基本的にこれらの要素の本質は観客を楽しませようとする意思よりも「こういうの、好きです。だって映画ってこういうものだったでしょ」というやはり後ろ向きな意思が先にあったものだと思います。

 その後ろ向きさは、トーテンコフ博士に端的に表れています。自分でも気持ち悪いと思うのですが、私はいまだに青臭い人間なので、観念型の悪役が大好きなのです。金とか女とか政治目標とか永遠の命とか世界征服とか、そういう具体的なものを欲する悪役ではなく、何かの状態を達成すること、自分の利益にはこれっぽっちもならないけれど、それでも自分の脳裏に宿ったイメージを、映画を撮るかわりに世界というキャンバスに叩き付けようとする、自閉的な悪役が好きなのです。それは分かりやすいところでいえばパトレイバーの帆場であったり、柘植であったりします。そしてこのトーテンコーフもまた、そのような「悪役」のひとりです。かれのたくらむ恐ろしい計画が「明日の世界計画」という名前であるところに、自分はたまらなく興奮します。それが皮肉でつけられた名前で「ない」ところに、よりいっそうの後ろ向きさと恐ろしさを感じて嬉しくなるのです。

 え?映画として面白くない?確かに。だけどいいんだよ!俺にとってこいつは映画じゃねえ!おもちゃ箱だ!「おもちゃ箱をひっくり返したような」映画とは違う!そういう「楽しさ」をいささかも背負ってはいねえ!おもちゃ箱そのものだ!他人のおもちゃ箱。自分が好きなものだけを溜め込んだ箱というものは普通、怨念や暗さやアクや苦味も詰まっているもんだ。だから他人のおもちゃ箱を覗いたところで、趣味があわなきゃ苦痛で仕方がないだろう。だからこの監督は最大限の親切として箱の外に「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」と書いておいたんだ。みんなに見えるように。

 というわけで、この長い長い文章が何を意味しているかというと。

 ごめんなさい、これ好きです。映画の面白さとかは関係なく、大好きです。

 というあまり中身のない文章でした。