箪笥

 ホラーだと思って観にいったら、ロリ映画ですた。

 韓国映画、というものでこの種のフェティシュを観たことがなかったので、ちょっとドキドキしてしまった。大林か岩井か(ってこの二者は『少女』の捉え方において大きく異なるのだが)、ってなもんで、とにかくロリ濃度が高い。

 最初は、確かにホラーかしら、と思ったのだ。「CURE」のファーストカットを思い出すなというのが難しい、精神科医と患者がちいさな机をはさんでいるところを、微妙な遠さの真横から捉えた、がらんどうの部屋。患者はフレムインするまでにやたら歩かされ、それぞれの要素間が意図的に距離を開けてある。このからっぽさをぶっきらぼうかつ冷徹なアングルで、長回しで捉えたカットは、すげえ黒沢臭に満ちていた。

 んが、ホラーっぽかったのはそれまで。この映画は基本的に突然飛び出してじゃじゃんじゃーん系の、サプライズな脅かしに終止していて、それは「ホラー」とはちょっと違うだろう、と思ったりする(とはいえ、後半でふたたび黒沢テイストな鈍器アタックが登場したり、清水崇チックな『袋』が登場するんだけど)。この映画は基本的にこけおどしに終止しているので、ホラーとしてはあんまり恐くない。

 というのも、この監督はこの映画をホラーではなく、少女映画にすると断固としてきめたようだからだ(と思う)。

 恐くないかわりに、この映画はふたりの少女を美しく撮ることに全力を傾けているようだ。のっけからふたりの少女(しかも姉妹、という萌え萌えな設定である)が生足を川にさらしているところを延々と撮っていたりする。この監督の「少女の素足」に対するフェティシュぶりはただごとではない。最初はこれ、ロー位置からなんか覗いているとかそーいうホラー的な、あるいは後半になって明かされるだろう何かの「真相」のための説話的な、どちらかの仕掛けであろう、と思っていたんだけど、結果から言うと

 純粋生足カット

 ええ? いやホント。この映画の素足は説話上なんの意味ももたらさない。映画としてそのアングルを選択すべき積極的な理由はとんと見当たらないのだ。もう、純粋に少女の靴下を脱がした、その指が、生足が観たい。俺は脱がす。そんな強固な意思に支えられた演出と編集は、シチュエーションが許す限り、いや許さなくても少女の生足をアップで捉える。これほど女性の(というか少女の)足の指をひたすら見せつけられた映画はさっぱり記憶にない。太腿フェチとかそういう映画だったらいくらでも思い付くが、この監督はひたすら生足、素足。フェチ魂全開なんだけど、韓国とフェチというのがちょっと珍しかったので、すごい面喰らってしまった。韓国では、こういうアモラルな美って社会的にオッケーなんだろうか。

 それから映画は律儀にホラー映画を演じつつ、ひたすら実態としての少女映画をゴリゴリ画面に押し出してくる。シーツについた赤いシミ。タンポンの挿入。姉妹の近親相姦的な濃密なコミュニケーション。敏感な人ならば恥ずかしくて画面から目をそらしたくなるかもしれない少女への、少女を描くことへのフェティシュをホラーの隙間から、いや隙間なんてものじゃなくホラーを脇に押しやって、それはもうストーカーのような愛おしさで描き出してゆく。二人が一緒に寝ているカットで、シュルシュルとエロチックなうごめきを見せるシーツはほとんど変態と言ってもよく、そう呼ばれるのはこの監督にとっては「望むところだ」というものじゃないだろうか。このカットはほんとうにヤバい。

 この監督には韓国の大林宣彦の称号を与えてもいいのではないでせうか、と思いはじめたころ、映画は律儀にホラーというかサイコホラーの世界へと戻ってゆく。黒沢チックだったり、清水チックだったりする、そんな日本ホラーのエコーが聞こえてきそうなクライマックスのあと、この映画は唐突にエピローグに突入する。

 観終わったあと、ぼくはものすごい混乱していた。少女映画であったものが、いつのまにか「ミスティック・リバー」になってしまった、そんな感じだ。死者を、そしてその「罪」を、のみこんだまま流れつづける、あの映画のボストン、チャールズ川。この映画に登場する「家」が、奇妙にあの川と重なって見えたのは、決してうがちすぎな見方ではないと思う。死者と、「罪」とが眠る川。その川から、死者はひとびとの人生を永久に支配するだろう。そして川岸に佇む罪人たちは、その支配を受け入れ、それでも生きていかねばならない。支配されつつ生きていくために、新たな嘘が重ねられるそんなチャールズ川と、あのすべてをのみこんだミスティック・リバーと同じように、あの家は佇みつづける。

 少女版ミスティック・リバー、と言ってしまうとえらく軽薄なものに聞こえるかもしれないけれど、それがこの映画を観たぼくの、正直な、しかし奇妙な感想だった。