レニー・ハーリン祭り

 をしようと決意する。できるだけ不毛なことをしたい、といろいろ考えたが、ジョン・ブアマン祭り、というのはすでに友人がやってしまったうえに「エクソシスト2はやっぱりすごい」とブアマンはモストインタレストディレクター認定するに及んで、わりと建設的なベクトルにシフトしたのがうらやましかったので、俺もできるだけ不毛な香りのするディレクターを選んで祭りが終わる頃には「再発見」しちゃったりしてそれなりにケチなスノッブ魂がホクホク、みたいな。意味不明。

 というわけでこれから「ドリームマスター」と「ダイ・ハード2」を見る。ダイ・ハードは90年。俺がバブリーな大作にがっつり熱中していた時期だ。ジョエル・シルバーにカロルコ。そういうこと。

 俺はガノタにはなれなかった。富野なんて心底くだらないと思っていた。マクロスも見なかった(オーガスはエロかったので観ていた)し、ロボットものにはほとんどハマらなかった。

 では、中学高校の俺様の精神に深い傷跡を抉ったメディア・アイコンはなにか。とつらつら考えるとそれは「80年代後半〜90年代初頭までの大味超大作映画群」ということになるのだろう。これはあまりに共通言語としてはニッチが小さすぎる気もする。世間はガンダム花盛りで、ガンダムで世代論を語ることは、それなりに意味があって高尚で言論的な市場が確保されている気もする。しかし、この時期の大作映画に対する同情心というものはほとんど見られない。言説もまた、ほとんど見当たらない。

 しかし、そうだろうか。シュワルツェネッガーと共に育った子供達は、そんなことは忘れてしまったのだろうか。「レッドブル」とか観て、冒頭のカロルコロゴに興奮し、オープニングのレーニン三段寄りに目眩をおぼえた子供達はどこに行ったのだろうか。「ゴリラ」ではじめて「サティスファクション」を意識した厨房たちは、いまどうしているのだろうか。

 ということを確認するために俺はこれから「ダイ・ハード2」を見る。なんだかよくわからなくなってきたが。

 気が向けば夜、なにか書くかも。