フェルメール展

というわけで、確かにあの人混みはどうにも嫌だと思いながらも行ってきたフェルメール展。
というのも、mixiフェルメールコミュで「割と空いている」時間帯を教えて貰ったからなのだった。

それは開館と同時、朝9時に会場へ入ることである。

たまたま、11時から放射線治療を受けることもあり、御茶ノ水に出て行かねばならなかったのだが、それならばちょっと早起きして上野まで足を運んだらええんちゃう、ということで七時半に家を出て、八時半に東京都美術館に到着、すでに並んでいる人がいるものの、割と前のほうに列べたのだった。ゲート前に列べたらこれはもう勝利。できれば前売り券を買っておくべきだったかもしれないけれど、中に入ったらそれほど混んでいなかったのでほっとした。

というわけで、ゆっくりフェルメールを見たい人は早朝も早朝、開館前に並ぶしかない、というのが実際のところ。それ以降はまともな観賞は不可能だ。というのも、ぼくが美術館を出る十時半の時点でものすごい人になっていたからだ。

さて、今回は牛乳女も耳飾り少女もなし、だけど点数だけは最大級、なフェルメール。とはいえ、フェルメールにも外れはあるわけで、実際に見てそれを感じたのが「マルタとマリアの家のキリスト」なのだった。これ実際にはでかい。物凄いでかい絵なのね。画集で見ていると気がつかないけど、縦160、人の身長くらいあるんだもん。でかい分大味というか、画集サイズで見ているときには気がつかなかった荒さがある。なんかでかい筆でべたべた塗りつけた感じ。やはり宗教そのものがダイレクトに題材になると、イデオロギーのようなものが先行してしまうのだろうか、観念の荒さというか、観念特有のディテールのなさというか、そういうものを感じる。宗教ではなく神話を扱った「ディアナとニンフたち」にはこの荒さはないから、やはりでかいのと宗教、この二点がネックになっているのだろう。

個人的には、フェルメールの快楽は窓から射し込む光の横溢でもなく、絵の中の絵といった自己言及性でもなく、服の皺の描き出す迷路のようなディテールにあると思っている。服の皺を見ているだけでうっとりする画家というのもそういない。これがレンブラントの場合は黒の黒々しさが快楽で、見る場所や快楽の源は画家によって違う。

わたしの一番大好きな「絵画芸術」は保存状態の悪化により展示が見送られていた。残念。

フェルメールを見ていると困るのは自分も絵を描きたくなってくるところである。とはいっても画材を買う気はなくてコンピュータだけれど。今使っている小さなVAIOじゃ話にならないなあ、Mac買おうかなあ、という衝動がカタログを見ているとわき起こってくるのである。実にたちが悪い。