トロイの王子様

 まず、オーランド・ブルームが破滅的に(まあ、実際国一つ破滅させるのだけど)ヘタレであるというのが面白く、このキャラのヘタレぶりは映画のバランスを崩壊させかねないほどで(というか、私に関しては上映中笑いっぱなしだったので、明らかに崩壊していました)、とくに、あの弓使いのエルフだった彼が、まるでジャイアンに虐められたのび太のごとく、夜中にこっそり、けなげにワラ人形相手に弓の練習をする、というのはもう捨て身のギャグに近い。いやきっと捨て身のギャグそのものだろう。パリスのヘタレっぷりはラストまで途切れることがなく、こいつがラストにもぎとった勝利すら、たまたまの油断で超ラッキー、みたいな裏ドラ満貫的タナボタであって、それがまたこいつのヘタレっぷりを増強するという救いのなさ。徹底しております。

 さらに、ふとしたきっかけでオデュッセウスは木馬のアイデアを思い付くのだけど、その思いつきかたがまるでミスター味っ子並みの「あ、それだ」という感じなのがまたどうしようもなく面白すぎる。ペーターセン、おのれは俺を笑い殺す気か。こうなるともうすべてが面白く、ピーター・オトゥール演じるプリアモスの宗教に陶酔した無駄につぶらな瞳の輝きとゆーか電波な恍惚や、アキレスが強いというよりは単に「必殺技使い」であるとか、木馬を城壁の中に入れてしまう、というイーリアスですでに間抜けだった状況が、映画の中でも「フォローしきれませんでした」とばかりにお間抜けそのままだったとか、すべてが笑いの創出に加担しはじめたかのように面白くなってしまい、ごめんなさい、単純に楽しんでしまいました。

 その一方で、映画を見る前から私が難しいだろうなあと思っていた要素はスパっとネグられておりまして、映画がはじまった瞬間にパリスとヘレネ(字幕ではヘレンになってたぞおおお。そのヤンキーくさい読み方はやめい)は既にして恋に落ちており、どうやってスパルタから連れ出したかも飛ばして既にして船に乗っており、とめんどくさそうな場面はえいやっと知らんぷりきめこむペーターセンの賢さはさすが。

 さて、この映画の奇妙なところは、その軍勢の規模はたしかにデタラメにデカい割に、その戦闘はまるで面白くない、というところではないでしょうか。
 船はどんどこ、兵士はわらわら、という具合に数はとにかく多い。合戦が始まるまでの「数」描写はくどいくらい。のに、戦闘場面でその数の多さが実感できるか、というとそうでもなく、戦闘はあくまでも戦闘にすぎず、微妙なところで「ブレイブハート/グラディエータープライベート・ライアン」路線にはのっかっていない。グロ描写は不思議にあっさりしている。

 おもろいかおもろないか、は別として、この映画は近年の戦争映画には珍しく、基本的に物語を語ることに集中しているのだ。プライベート・ライアングラディエーター(そしてブラックホーク・ダウン)に顕著な、ディテールの暴走があまりない。その割に上映時間が2時間45分もあるというのは、ペーターセンの語る効率の不経済さを表してはいるのだけど。しかし、この映画は「面白い戦争を見せよう」とか「悲惨な戦争を見せよう」とかいうことにまったく無関心なように見える。戦争において人間が損壊する、その損壊の仕方によって戦争の非日常性を「(不謹慎ながら)面白く」見せたのが「プライベート・ライアン」だったし、それより以前から、フツーの刑事ドラマであるはずの「ブラック・レイン」で異常暴力のオンパレを繰り広げていたリドリー・スコットこそ、「おもしろく欠損する人体」を映画の見世物としてエゲツなく利用してきた第一人者でもあった。

 しかし、この映画の戦争はあまり面白くない。あの当時の戦争の段取りを見せようという面白さ(そういう類いの面白さに関しては、「マスター・アンド・コマンダー」がズバ抜けている)もまったくない。戦争の細部を見せようという欲望がさっぱり見られない。「Uボート」であれだけ潜水艦の内部をねちっこく描いていたペーターセンが、だ。この映画は戦争を見せようというよりも、不器用ながら物語を語ろうという方向に傾いている。

 その意味で、冒頭のタイマンは象徴的だ。対峙する大軍勢は、しかし戦闘することはない。おのおのを代表する戦士がふたり、決闘してその戦争を表象する。これは、これ以降この映画において展開される戦争行為のすべてを象徴する決闘なのかもしれない。要するに、戦争はあってもなくても変わらないのだ。一対多でも、多対一でもなく、大群衆の戦闘のカオスのさなかにあってさえ、戦争は一対一のタイマンとして展開されるのだ。

 それはつまり、この映画が英雄たちの物語にすぎない、ということなのだろう。英雄はデタラメに強いがゆえに、その強さに理由はなく、そこにディテールの居場所はない。強者の物語は、一切の細部を不純物として退ける。ディテールは「理由」に直結しやすく、ゆえに強者の物語を「脅かす」からだ。英雄潭において、ディテールは語られてはならないのだ(これはとりもなおさず、「グラディエーター」が英雄物語になりそこねていたことを意味する)。