ゲームと思想
この前、ある場所でとある方とお話させていただいたときに、
エロゲー(というか、ノベルゲーですか)が批評的な場で語られたのって、結局、お話だったからでしょ
と、ふと思ったのでした。
たとえば、あくまでたとえばですけど、ゲームのインターフェイスの変遷や、ゲームという言葉どおりそこに内在するルールをプレイヤーがいかに受容するか、などといった方向を、(平凡ですが、まあ例ということで)生権力の話や環境管理型権力(これなんてまさにゲームデザインの思考ですからね)の話などに絡めて論を展開するとか、そういう可能性はいくらでもあったように思うわけです。なにせコンシューマーゲームでは「システム」をひとつひとつ設計し、世界(物語空間ではない)を一回一回デザインすることが多かったわけですから。ゲームの中で物語性に絡まない部分であっても、いくらでも批評的な話はできたはず(じゃあお前やれよ)。
それが、なぜ(一時期)エロゲーに代表されるノベルゲーだけが批評的なツールとしてもてはやされたかというと、それは結局お話だったから、単純に語りやすくとっつきやすく見えやすく何より「読みやすい(つーか読む媒体ですからね)」、「物語」だったからでしかないんじゃないか。
あのとき語られたのはゲームじゃなく、あくまでエロゲーだったんだなあ。
だって、インタラクティビティが重要だったんなら、お話なくてもいいじゃん。
なぜ「システム」という実に魅力的なものが剥き出しになったコンシューマーゲームが、(いい悪いレベルに終始するだけで)あまり語られることがなかったのか。いや、あの時代エロゲーがらみの話にまったく絡めなかった(マカーだったので)人間の僻みかもしれないですが、もうちょっとゲームに関する思想的展開は豊かになってもよかったんじゃないかなあ、別の可能性があったんじゃないかなあ、としみじみ思い返す2008年の春でした。
いや、当たり前ですが、お話大好きですけどね、私。
ありえたもうひとつの可能性を夢想しているだけで。