純正律

 最近、純正律に興味を持ったのでネットでいろいろ調べて、面白そーだなー、とか思っているのだけれど、いろんなところを読んでいて、どうしても気になってしまうのが、純正律寄りで紹介している人たちの文体なのだ。

 というのも、現在一般に広く使われている十二の平均律については、「人間の耳が自然と感じない」「美しくない」「人工的な」「転調が容易という『だけ』で広まった」とか物凄い語彙を費やして(けっこうな数で)罵られ、翻って純正律

「和声が美しく響く」「人間の耳が本来求める」「自然な」「古代から人間が織り上げてきた感覚に馴染んだ」「美しい」

とか、なんだか物凄いナチュラリストな賛辞が(結構な数で)書かれている。ものすごい勢いで純正律の「正しさ」が主張されているのだ。ううむ、音楽聴いて癒されようなどという発想があまり浮かばない私には、ものすごい違和感がある。

 音楽の歴史にまったく無知なので、これからきちんと調べものしていこうと思うのだけれども、素人目にはなんだかこれ、物凄くカルトっぽく見えてしまう。特に人間本来、とか自然、とか美しい、とか、そういう感じの物言いが目に付くあたり。一瞬、winとマカーに対比させようと思ったけれど(私はマカーです)、さすがにコンピュータじゃ「自然の」「人間本来の」とまでは主張できないわな〜(実は音楽で「自然さ」を主張するのも、同様に無茶苦茶なものいいだと思うのだけど、それはまた別の話)。

「自然」とか「美」とかいう純朴さ、って、あるものを支持したいとき、ものすごくヘボいと思う。「癒し」とかいう単語が速攻で廃れたように。こういうのを見ると、純正律に興味を持ちかけの私でも「自然?うげー」とか「人間にとって自然、って、人間って誰だよ。少なくとも俺じゃねーぞ」とか反発心がわき起こってしまう。というか正直カルト宗教とか「ガンが治った!」系の自然食品セールスの無気味さすら感じてしまったのだ。

 もしかしたらチョムスキーみたいに「人間の耳が美しく感じる音律はこれだ!」みたいのが生来の構造として脳に組込まれているような、脳科学の理論がすでにあるのかしら。それだったらまあ「自然」とは言えないこともないけれど、言語学者が「自然な言語」とか主張したらデムパだし、あまりナチュラル性、というかアプリオリ性、というのって価値としては弱いよなあ。

 純正律を持ち上げるにしても、もうちょっとやり方があるんじゃないでしょうかねえ。といいつつ、聴き比べたりしていると、ほほー、と思う部分もあり、なかなか面白そうなネタではある。ただまあ、なんちゅーかセールスの問題ですな、この話。もうちょっとやり方があるんじゃないかしら。

 と書きつつ、マカーである私も自戒せねばなるまい。