「ローレライ」再見
さて、DVDで「ローレライ」を見直してみた。相変わらず問題山積みな映画だった。そういえばこの前、職場のボードに「日本沈没 宣伝会議○FXXX会議室」とか書いてあったなあ。どうでもいいけど。
さて、「イージス」を観たとき思ったのは、しっかり「映画」になっていて福井物の中では一番マシだ、という大方の人の感想と同じだったんですが、また同時に、
- 「イージス艦って思ったより絵にならんよな〜」
- 「やっぱ現代戦って艦隊戦の時代じゃないから、エグゾセ1発で沈むようなペラい装甲しかないし(だからエースコンバットとかでミサイルごときで沈むのは決して非現実的ゲームならでは、ってわけではない)、単位時間あたりの投射量が多いのは解るけど砲身そのものは楊子みたいな細さだし、ブリッジはカクカクだし、どの角度から撮ってもサマにならんよな〜」
とか思ったのは決して半端ミリオタのどうでもいい嘆きではなく、要するにこの人(阪本さん)、舞台を演出する気がとことんなかったんじゃないか、と感じたのだ。
と言いたくなったのも、「イマイチ」と思っていたローレライが見直してみたら思いのほか良かったからで、少なくともこの映画では(潜水艦映画のお約束として)人がひしめき合っている。翻って、「亡国〜」でアレレと思ったのは、最初っから艦内のクルー密度がえらく薄かったことで、常識的に考えれば、潜水艦んなどより水上艦艇はだだっ広いうえに、自動化も進んでいるし、現在の自衛隊の編成を考えれば、あの程度の閑散としたクルー数が「リアル」なのかもしれんです。
しかし、なんというか、「真相」発覚後にクルーを降ろして反乱士官とテロリストがうろつきはじめてからのほうが、前半の通常航海時よりも「人が多い」ように見えると言うのは、なんだか舞台演出間違ってません?
要するに、映画の舞台としてのイージス艦が、まったく面白そうな場所に見えなかったんですわ。ぶっちゃけ、数年前にゆうばりファンタ行ったときに大洗から苫小牧まで乗ったフェリーと大差ない、もう、壮絶な「ただのフネ感」が通路と言わず士官室と言わずあらゆる場所に張り付いていて、とくにその閑散具合も似すぎ。そんな乗客いなかったからなあ、あのフェリー。
真田広之が部下にばあちゃんの話をする通路とかも、暗くて二人だけ。この映画の前半、クルーは食堂かベッド(部屋ひとつしか出てこない)にいるだけで、なにが言いたいかと言うと、全然イージス艦で立ち働いている感じがない。航海長がブリッジで進路指示するのがワンカットだけ。この艦、人いねえんじゃねえか、となって「雪風」的オートメーションと人間の相克に行きはじめたら立派にSFですが、冗談としてそんなことを考えてしまったほど、「男たちが働いている感じ」がしないのでした。やっぱ、ウソでもいいから通路は忙しそうに行き来するクルーを数人すれ違わせたりするべきだったんじゃないでしょうか。この映画、そういう「船というシステムを動かしている感じ」がないんですよ。海の上を膨大な金属のカタマリが動いていくのだとしたら、それは人間と機械の不断の努力によってようやく達成されるものであり、その努力の不在は逆に「これ、オカの上ですか」という感じを醸し出してはしまいませんか。
実際、この艦のクルーが働いていたり戦闘配置に付いたりとかいった「日常」を描写してる場面って、ない。この船が生きている感じ、機能している感じって、まったくしない。物語が進行するための事故のところだって、みんな突っ立っているだけだ。
「ローレライ」がだんだん「イージス」よりも好きになりはじめているのは、少なくともそこに「船という場所がある」ということを信じさせてくれたのは、本物なんぞ一瞬も使っていない(当然だ)オールセットの「ローレライ」のほうだったからで、「イージス」は確かに本物のイージス艦が映ってはいるのだけど、そこに軍艦(じゃなくて護衛艦ね)がある感じがしなくて、どこまでいってもタダのフェリーにしか見えてくれないのです。
「イージス」って思うに、人の配置とか、空間説明とかがすごく雑で、たぶんそれが解っていたから阪本さんもイージスを「演じる空間」に特化してしまったのだと思う。どこかで「空間が出せない以上、これはアクション映画にはならない」と腹を括ったんじゃないでしょうか(邪推)。これは潜水艦のほうが狭いから空間説明が楽、という問題ではぜんぜんない。だって「イージス」ってそこで必要な人物しか画面に映っていないんだもの。
「ローレライ」は映画としては未熟だったかもしれないけれど、「イージス」がそんな誉められる映画かというと、うーん、そうでもない気がする。あと、個人的な好みでいえば、やっぱ「セカイを丸ごと変えようとする」壮大なキチガイが出てくるほうが断然楽しい、というのはある。「パトレイバー」の帆場しかり、柘植しかり。「俺が歴史のグラウンド・ゼロだ」そう欲望する悪役がぼくは大好きだ。たぶん高橋洋はそれをドクトル・マブゼとして欲望した。「息子さん、可哀想だったよね」と同情されてしまうような「人間的」な悪役はもっと地に足の付いた確信犯となればいい。イージス艦を占拠して化学弾頭で都民皆殺し、みたいな大虚構の看板役者には向いてない。「あんたにも辛いことがあったんだね・・・」それは解る。だが問題はそれがまったく面白くないことだ。
それよりは「ここより先、歴史は変わる」という気の狂った革命者のほうがずっと、大嘘を背負って立つ力量があるではないか。「原爆で天皇と帝都を葬り去り、この国は切腹して流浪の民となり、強化されるのだ」という浅倉の思想の内容自体は、まあ共感できる人はいるかもしれんし、まったく詰まらんという人もいるだろう。だが内容は関係ないのだ。それが歴史に変更を迫るか否か、もっと分かりやすくいえば世界を変えてしまうほどに突き抜けて狂っているか否かが問題なのだ。
あんな社会科の感想文を新聞に載せろ、などというヘボい要求では、世界は変わりようがない。「亡国〜」のもうひとつの弱点は、宮津がどこまでも我々に理解されうる常識人でしかなかった、ということだった。悪役を世界に対する悪意として描かないなら、原作小説がお手本にした「ザ・ロック」でやった変則技のように、悪役を主役たちより俄然キャラの立った「ヒーロー」にしてしまう、という手もある。しかし「イージス」の宮津は気狂いにもヒーローにもなれず、あくまで我々の同情されるべき隣人に留まってしまう。唯一、突き抜けてセカイに変更を迫るに見えたヨンファですら、妹の死とともに中途半端な領域に回収されてしまう。結局、この映画の悪役たちが光った瞬間というのは、某国の要員たちが一斉にインカムに手を当てたり、一斉に自決する場面だけだった。あそこだけは、確実に「突き抜けた」ものが画面を覆っていた。
「映画として上等」なのは「亡国〜」であるというのはぼくもそう思う。ただし、どちらが「面白い」かと言ったら、いまは「ローレライ」だと言い切ってしまいたい気持ちだ。
キチガイを!アクション映画にもっと気狂いを!
・・・あれ、戦国は?