ローレライでできればみたかったもの

いまある本を読んでいたら、2次大戦中の米艦のCICの写真があった。

たぶん艦長以下のえらい人たちが「当時の」でっかいコミュニケーションツールに囲まれて、でっかいヘッドホンを頭につけ、円形のテーブルをぐるっと囲み、顔突き合わせて座っている。

CICというシステムの黎明期。艦長がブリッジに常駐せず、窓のない部屋で戦闘指揮を組み上げてゆくことになる、そんな未来の予感が見える写真だった。

「あの時代」をファンタジーとして扱うことに決めたあの映画だから、というのにたぶん密接に関係しているのだけど、映画では原作にあったCZ探知のくだりがざっくりなくなっている(というか、最初からなかったのかも)。樋口さんの画コンテ集に載っている、かなり原作にそった中島かずき初期稿にもCZのくだりはないから、最初からこのテクノロジーに関する部分は末節だったのだろう。

実は、自分は福井作品では「終戦のローレライ」が一番好きなのだ。それはこの作品がいちばんSFっぽいからだ。というと超能力美少女が、と勘違いするひとがいそうだから念のために言っておくと、福井作品ではこの作品が唯一、テクノロジーというものに(どのようなスタンスであれ)作者がコンシャスになった小説だからだ。

ローレライにCZを併置する思考、そういう眼の付けどころがちょっとSFっぽいのだ。「当時の」最先端の技術を登場させる、とはそういうことだ。いまわれわれの「現実」となっている技術の、その萌芽を「フィクションとして」描くこと。世の中のシステムが変わっていくのそ初期段階を、技術に託して触れること。

今日、このCICの写真を見て・・・これが映画で描けていれば、この窓ひとつない部屋での戦闘指揮が映像化されていれば、「たたかい」の在り方が、そして「時代」がこれからテクノロジーによって変化するという、その「予感」を映画にとりこめたんじゃないか、と想像してしまう。

というわけで、これから「ドッジボール」観てきます。