大塚英志+杉浦守「オクタゴニアン」角川書店

学生だったころよくやるオタの駄話で、確か発言したのは私自身だったような気がするが、「ザ・ロック」を観たあとだったか、「『皇居ダイハード』ってアリじゃね?」というキワドくもくだらなすぎる冗談を語っていた記憶がある。内容はあってなきがごとしで、「皇居をテロリストが(略)しかしたまたまバスルームにいた(略)反撃の銃火の中で自分自身を取り戻し(以下略)」ぐらいのズサンなディテールしか思い浮かばなかった実にアホな架空企画ではあるのだが(テロリストの要求政治思想欲望一切考えてない。そもそも政治的な話ではない)、この企画にはキモがある。それはたまたま逃げおおせて反撃せざるを得なくなる主人公(誰かは言わせるな)の一人称が

「わたくし」→「朕」

に戦いの中で変化していくということである。激しい戦いの中で、銃を取った主人公(誰かは言わ(略))の一人称を変化させることで、近代的自我の確立を描くわけである。これはウケる、と勝手に盛り上がっていたのだが、思い返してもひどい冗談だった。当然「わたくし」が象徴する戦後民主主義からいったん「朕」が示す前近代的主体を迂回した主人公は、「わたくし」と「朕」をアウフヘーベンした地平(誰かと止めろ)、すなわちポストモダンな真に現代的自我である「俺」へと最終的に到達し、主人公(誰かは(略))はオレオレと世界の中心で叫びながら敵をバッタバッタとやっつけていくわけである。俺俺俺と俺が画面を埋め付くし、そこを「オレ」と白抜きすればベアの「女王天使」のオチになるが、それを映像でやるとドン引きされそうだ。

「わたくし→朕→俺」という一人称の変化によって示されるビルドゥングスロマンとして、この「皇居ダイハード」は名作になるだろう、とかいま思い返しても相当馬鹿な学生だったことがわかる妄想だが、実際問題、「あの方」を主人公にした物語は可能なのだろうか。

もちろん、可能なのである。だって大塚英志だから。

とはいっても、この「オクタゴニアン」、主人公は「天皇の影武者」、昭和天皇と同じ顔を持つ男のディテクティブ・ストーリーであって、正確には昭和天皇そのものではない。「天皇の身替わり」という主人公の設定は、持衰や山人を匂わせるいつもの民俗学ネタで、なんでえ「北神」か「木島」かよ、とまあ、金太郎飴的大塚ワールドではあるのだけれど、この物語で重要なのは、「天皇の顔」が説話上は単なる便利アイテム、至上最強の顔パス装置に留まっていることだ。彼の相棒の怪物くん(変装の名人、とかいうレベルの生き物ではないが)と能力上ファンクションが被っている気がしなくもないが、ここまで「天皇」という存在が軽く「使用」されているのも珍しいかもしれない。ほとんど副将軍の印篭状態だ。この漫画は「天皇のアイテム化」というけったいなことをさらっと行っているのだ(と同時に、昭和天皇自身は実に味わい深い「キャラクター」と化している)。だって、舞台が「木島/北神」から下って戦後になり、昭和天皇を扱っているとはいえ、1巻に限ればネタが「木島/北神」と変わらんや〜ん。

まあ、そんなのは全然傷なんかではなく、面白いからいいんですけどね。いまのところ「天皇の顔を持つ男」は至上最強の顔パス男でしかありません。ただ、最初の話のラストはすこし泣きそうになりましたけど。短いのにいい場面で。このへん、さすが大塚英志

そういえば、いま付き合っている病の最初の時(4年前)、友人が見舞いに持ってきてくれたのが「戦後民主主義リハビリテーション」だったのを思い出した。

あと「未来獣ヴァイヴ(山田正紀)」買った。完結。