誰にでもやってくるらしいぞ
さて、今日は買い忘れていたアメコミを買いに行こうと思い、15時頃家を出て、駅のケンタッキーで遅い昼飯のチキンフィレサンドセットを喰っていたら、こういう曲が聴こえてきた。
クリスマスは誰にでもやってくる〜♪
初耳だ。少なくとも俺には来たことがない。俺が気がついていないだけかもしれんが、まさか誰にでもやってくるものに世界で俺1人だけ気がついていないなどというディック的状況などあるわけがない。誰にでもやってくるのは死だけだ。死が暴力的なのは有無をいわさず誰にでもやってくるからだ。ちなみに俺はこの「暴力的だ」という断定が大好きだ。「電話の呼び出しベルは暴力的だ」「メールは返事を強要するから暴力的だ」「地震の際に緊急放送『なんか』より種デスを放映しろと電話やメールをよこしてきたアニオタが1万件以上いるという現実が暴力的だ」「矢田亜希子の微笑みは暴力的だ」「ペ・ドゥナの瞳は暴力的に可愛い」
というわけでクリスマスは暴力的だ。なにせ誰にでもやってくるそうだから。死と同じく。そうなると「たかが毛唐の偉人の誕生日」などと言ってはいられない。森見登美彦の名作「太陽の塔」はかかる事態を「クリスマスファシズム」と形容していたが、誰にでもやってくるとなればもうこれはファシズムどころの騒ぎではない。ファシズムなら国外へ逃亡すればいいのである。だが死から逃亡することはできない。なぜなら、それは国も時代も関係なく、誰にでもやってくるものだから。クリスマスが誰にでもやってくるものならば、それはファシズムよりもタチが悪い。回避不能を宣告されたわけだから。クリスマスが叫ぶ。クリスマスが高らかに笑いながら叫ぶ。「我が名はオジマンディアス、王の中の王!我が業を見よ全能の神!しかして絶望すべし!」
となると、私はクリスマスに備え防衛しなくてはならないだろう。やってくるのはかまわんが、俺の砦には一歩も入れさせん。退かぬ、媚びぬ、顧みぬ。俺をクリスマスに屈服させたいのならば、愛のひとつでも持ってきやがれ。
お願いします。愛があれば、いいんです。それさえあれば、私はユダにブルータスにカシウスになります。愛です。
というわけで「アキラ・アーカイヴ」と「リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン」を買ってきた。