おやじのつぶやき

というわけで、母校の学園祭もとい芸術祭に行ってきた。ひさしぶりに先輩が田舎から出てくるからだ。行ってから知ったのだけれども、昨日、ここにPerfumeが来ていたらしい。ということはオタクと美大生のレーゾンデートルをかけたコンフリクトがあったに違いないのだが、小平は鷹の台駅から歩いてはるばる徒歩20分のど田舎、ふと振り返れば厳戒態勢の朝鮮学校がすぐそばにあるシュールなこの場所にやってきたオタたちの心情はいかばかりか。小平の雄大な田畑を背負ってオタ芸は炸裂したのだろうか、とか思ったのだけれども、聞けば今年の漫研入部者は20人以上に及ぶと聞き、さらに現在漫研サークルの総人数は60名を数えるそうだ。おのれら何しに学校に来とるんじゃ、と自分を棚においてわめきたくなったが、それにしても少子化の昨今、サークルの最下層カースト、キモい人の集団、サークルボックスで授業をサボって少年があんあことやこんなことをされている同人誌を読みふける人外が傷を舐めあう場所、であるはずの漫研に60人というのは異常だ。もしや、我が母校はオタクがとりあえず志望する学校、と化しつつあるのではないのか。そんな憂鬱に囚われた。

猛烈にスペースを広げつつある漫研のボックスにいくと、篠房六郎氏をはじめとする私の年代の部員が数名がいて、現役部員の迷惑そうな視線を横にええ面のオヤジたちが雁首そろえてオタ話。「ハチクロにあこがれてここに入学してくる子たちがけっこういるらしい」「だからあんな美大生活存在しねえって」「だから、自らジョイフルで甘酸っぱいハチクロのようなキャンパスライフを実現すべく、「青春部」というのが作られたらしいですよ」「なんか本末転倒というか、勇者がいなかったら、俺が勇者になればいいじゃんってポジティブシンキングか」「フィクションが現実を侵食してますね」「てかさ、ハチクロって後半、美大とか才能の葛藤とか関係なくね?」「まあ、恋愛話がすべてを覆い尽くしますな」「要するに、恋愛って、それおっぱじめると構築してきたすべてが崩壊し、展開していたすべてが凍りつき、ただ恋愛が圧倒的に物語を支配して、じゃあそれまで美大生活とか描いてたのなんなのよ、ってくらい他のすべてがどうでもよくなるよな」「それはげんしけんでも一緒だろ」「実は「2nd GIG」見ると攻殻ですらそうだ」「『素子ォォォォ〜』なんて叫ぶバトーさんはまるで小学生だ」「恋愛ってスパイスにはならんよな、物語を暴力的にドライブさせはじめて、それ以外の要素を彼方に追いやるから」

しょぱく青臭い会話の数々。サークルボックスに入ったとたん、あの頃のモードに戻ってしまうオタの悲しい習性。しかし、篠房氏はさらなる鬱屈を溜め込んでいるようである。部員がイケメン過ぎ、かわい過ぎ、つまりはフツーで、屈託がなさすぎるというのだ。いや、そりゃあなたは昔から鬱屈していましたから。しかし確かに、いまの部員の子を見ていると、とても高校まで人に分かってもらえないサブカルチャーな漫画文化に触れてきた子達とは思えない。高校のとき、同じ趣味を周りと誰も分かち合えなかったような孤独を背負った子の気配が。篠房氏曰く、「そんな子は、いまは、いない」と。皆メインストリームしか見ておらず、「あれは神」「萎え」などと快不快の伝達に終始し、青臭い批評的アクションを起こすものは皆無だと。「たぶんみんな、高校でクラスの中心のグループにいた人たちばっかりだ」オタ文化が市民権を得た故の情報劣化か。「なんでオタクだからってハブされるんですか?」われわれが中高を過ごしたヘボい鬱屈を今の子達は理解できていないのだ。まあする必要もないが。彼らには「好きな作家」すら存在しないと篠房氏は言う。作家というのは、まあそればかり拘るのもアレではあるが、ある程度まで有効な批評的、あるいは内省的契機となる戦略だと思うけれど、彼らには「作家から見る」という視点も「作家を遡る」というアクションもないそうだ。作家ではないが「ガイナックスが好き」と言った現役生に、「じゃあ最近はトップ2?」「そうですね」「よかったです」「ファーストは見た?]「実は見てないんです」おいおい。ファーストみないで「2」の最終回は意味不明だろが。とにかく彼らは深く埋没しないし遡らない。健康なのだ。篠房氏はその健康さまっすぐさに戸惑っていた。人とつるむために作品を消費している彼らは、学校の休み時間に話題にされるテレビと大差ない作品への付き合い方をしている。コミュニケーションの緩衝材だ。しかし篠房氏は言った。そうじゃないだろう。俺はこれが好きだが、誰にも言えないしそもそもそのマイナーな漫画の感動を分かち合うやつもいなかった。けれど学校に入って漫研に入ったら、それを知っている人々がたくさんいたんだ、と。

いまの子達はアニメとエロゲと漫画しか見ない。映画の話ができる人はたぶんいない。長くこの場所に来ていなかった私に、時々ここへアシスタントを物色しにきている篠房氏はそう言う。入学当初はね、ナチ好きの女の子がいたんですけどね、「戦争のはらわた」とか「地獄に堕ちた勇者ども」とか「愛の嵐」とか一応抑えている新入生。でも最近見かけないんですよ。やっぱ彼らはクラスの中心で、彼女はクラスの隅っこで一人になる子だったんじゃないでしょうかねえ、と誰かが言う。かつてはクラスの隅っこにいた痛々しい孤独な連中が、自分と同じものの見方を持っている人がいると知って、救われる場所がここだった。それはもちろん、外から見ればイタい集団ではあるが、そこにいた連中はお互いのイタさを知っていた。そして、オタ文化がメジャーになったとき、クラスの中心にいた連中もそこに流れ込み、「薄い」ひとたちはその薄さゆえ天下をとった。ナチ好きの彼女はいまどうしているのだろう。革命が成し遂げられた暁に、我々は安住の地からもイタくてウザくて「違う」ひとだとみなされる様になったのだ。これじゃまるで「灰とダイヤモンド」ではないか。WWII後のポーランドならぬ、オタクルネッサンス後の我々は、あの映画のように新世界に対するレジスタンスとなってしまったのか。健康な人間が勝利するのはあたりまえだ。彼らに悪意はない。悪意があるのは、われわれのほうだ。

という話が盛り上がったところで、篠房氏が短編の原稿を見せてくれた。読んでみて爆笑した。あいかわらずルサンチマンに満ちている。これを後輩が見たらどう思うだろうか。ひどいひとである。「宮崎勤を、彼らは知らない」みたいな台詞が、妙に印象的だった。来年の新入生は平成生まれじゃないか。時代は進むのだ。あとは例によって馬鹿話に突入。篠房氏はオタク版ダ・ヴィンチコードなどという前にも聞いたことのあるアイデアを熱く語る。被害者の部屋に並べられたガンプラでプロファイリングするとか、馬鹿ネタ満載で圧倒される。私が思うに、ダ・ヴィンチ〜をやるんだったらやはり最初の犠牲者は撃たれてからダイイングメッセージを残すまでにアッガイアプサラスをつくりコードギアスとAIRの積ん録りを3本ほど消化した後に2chに「これから死ぬ」「あぼーん」などと書き込みをしてからやっと死ななければならないだろう、と思う。もちろん開館はルーブルに対応させてジブリ美術館だ。それしかない。