エースコンバット5/ジ・アンサング・ウォー

 熱で家から出られなかったんですが、そんな体調にもかかわらず横になりながらエースコンバット5やってます。てかやりすぎて幻覚が見えるようになりました。レチクルが視界にかぶってくるのです。注視対象に四角い枠がつくのです。眼がHUD化してきました。

 各国の戦闘機が幕の内状態で節操なく選択できる、といういままでのシリーズの基本使用を別にすれば、今回はなんというか、エースシリーズではじめて現実世界の意匠を露骨に使用したものになっている。このゲームの架空の世界での、それぞれの国の経済がどうとか政治がどうとかいうのは当然のことながら一切出てこないのだけども、オーシアにアメリカ的意匠を、ユークトバニアに共産圏的意匠を、それぞれ露骨に適用している。

 エースコンバット5の舞台は架空の世界だ。んが、いま、この米ソ(だってオーシアの国家指揮権限者(NCA)は「大統領」で、ユークは「首相」なのだもの)になぞらえられる2大スーパーパワーが戦争になだれ込む世界の危機、という物語は「今」の物語ではない。公式な戦争、公式な軍事力、という局面においてはアメリカがイラクを一方的にタコ殴りにしてしまう「つまらない戦争」。そして非公式な戦争、非公式な軍事力においてはどろどろの消耗戦、一般市民をまきこんだユピキタスな戦場の「描きにくい戦争」。

 そんな現代の戦争の構図からすると、2大国が戦争に突入していく今回のエースコンバットの物語は、えらくアナクロだ。しかしそれはこのゲームの物語が時代遅れの遺物であることを意味しない。むしろこれは現代的な物語なのだろう。ノスタルジーとしての冷戦を楽しむ、そうした「ガーンズバック連続体」的な感覚。

 なぜそんあふうに思ったのかと言うと、ぼくは、空母というのは優れて80年代的な意匠ではないか、と思うのだ。それはたぶん、トニスコの「トップガン」の呪いのせいだと思うのだけど、90年代の戦争をイメージするとき、それは湾岸戦争でありソマリアでありユーゴでありコソボだった。ここに空母の居場所は(あまり)なかった。勿論現実に行われた戦争は、空母の居場所がないなんて、そんな馬鹿なことないのだけど。

 空母には80年代のイメージが張り付いている気がする。そしてそんな空母を軸に展開する今回のエースコンバット5は、そうした80年代に訪れなかった全面戦争のファンタジーとして、いまノスタルジーとともに消費される。

 で、ミッション27、最終面がクリアできないんですけど・・・。