キャシャーン

http://www.eiga.com/review/casshern.shtml
 本音を隠さず嘘はつかず、読んだまんま受け取れるけど、上手い具合に波風たてない柳下さんの文章。すげえなあ。エディプス云々の「見ればわかる」部分は抜きにしても、「みたまんま」を書いているだけで「だから?」な感じの、同サイトのイノセンス評(http://www.eiga.com/review/innocence.shtml)にくらべれば文章としての面白さは歴然。
 それはともかく、この柳下評の

演技などないし、そもそも俳優は動きもしない。ひたすらキラキラ輝く画面の中で朗々とセリフを読みあげるだけなのである。

というのは、一言でこの映画の枠組みを言い当てていると思う。それは

このアクションなきSFアクションで語られるのは

という部分に呼応している。
 澁澤龍彦三島由紀夫の戯曲、ルノー/バロー劇団『サド公爵夫人』について、「役者達がほとんどアクションということを示さず、多くの場合、直立不動のままで台詞を語っていた」と書いているそうな。その文を引用した養老孟司は「これが視覚の特徴である」と書いている。運動/演劇的行為とは静止した一枚絵ではありえない。それはとりもなおさず「行為」であり、連続した動作が構成する「機能」だからだ。映画が絵画とその性質を異にするのはまさにこの「運動性」による。

 勝手な読みを許してもらえるなら、「このアクションなきSFアクションで語られるのは」という文章の最初の「アクション」と、「SF」の後に続く「アクション」は違う意味を担っているような気がする。言うならば、最初の「アクション」ということばは「運動」に置き換えられてもいいのかもしれない。運動なきアクション、そしてそれは「映画的時間の希薄な映画」という意味に他ならない。そして、そんな「動作の不在」を指摘した後に「語られるのは」という言葉が来るあたり、まさに前述の「サド公爵夫人」の話にぴったり符合してしまう。柳下さんの文章はかなり正確に「キャシャーン」という映画のもつ問題や「あるものの」映画的希薄さを露にするツールになると思うのだ。

 おお、個人的には面白い問題に突入しはじめたのだけれども、こういう重い文章は書いていて疲れるので、この続きは明日にする。