ディストピア10傑

世界ではみなさんがなんだか面白そうなことやっていたみたいなのだが、すっかりお祭りに乗り遅れてしまった。締め切りがちょうど17日で、その前3日はフルに完徹。そんなてんぱった俺サマーに何が出来ようか。完全に乗り遅れだ。

乗り遅れるとどうなるか。全部出尽くす、という当然の結果が待っているのである。もともと狭い範囲のセレクション。そんなにバリエーションがあろうはずがないわけで、バラードも国民クイズもみんな書かれてしまっているのである。

そうしてもなお、未練たっぷりに書くのが俺様クオリティというやつ。そこでひとつ、映像にネタをしぼって書くことにする。

暗黒郷への憧憬。その因子をぼくに植え付けたのは、実は2019年11月のロサンゼルスでも1984年のオセアニアでもなく、

  • 20分後の未来

なのだった。"20 minutes into the future." サイバーパンク華やかなりし頃、マックス・ヘッドルームというテレビドラマがあったのだった(の前にトーク番組とかパイロット版とかいろいろあるけどまあ、割愛)。まだまだテレビ局に未来があると思われていた時代。まさかいまの職場で「放送」と「通信」が別物として扱われその障壁に苦しもうとは予想もしなかった時代。ネットワーク23の花形レポーター、エディスン・カーターは、今観ると笑ってしまうほど凄いサーチパワーを有した万能衛星とそのオペレータのバックアップのもとに、衛星と連接(リンク、というよりこの漢字の響きが好きだあ)したカメラを持って、危険なネタに突撃取材を試みる。ああ、今観るとこれって「オペレータがリアルタイム監視衛星で現場を誘導」って定番アクションのパイオニアじゃんか。特定のテロリストの爆破テロの「独占放映権」とか、殺人よりクレジット詐欺の罪が重いとか、そういう未来が描かれつつ、テレビらしく適度にヌルいところもまた、好みだった。

ちなみに、ぼくはブレランのロスがディストピアだとはどうしても思えない。AKIRAのネオ東京も同様。今に比べて、あれらの場所が暗黒郷っぽいか、というと、そうかわらないように見える(いや映像的には群を抜いてますし、ブレランは私のバイブルですけど)。単にああいう場所、という感じ。なんかdeHumanizeな感じがない、というか。抑圧が感じられないんですな。

現在ある我々の抑圧を描くツールとしてディストピアが生まれた以上、それは必然的に風刺とならざるを得ない……といいたいところなのだけれど、風刺でもなんでもなく、ただの風景として存在するディストピアがひとつだけ、あったりする。それはナボコフの「ベンドシニスター」のどっかの国だ。この物語のディストピアには、いかなる批判意識も盛り込まれていない(というか、ナボコフの作品すべてにそういう批判意識は微塵もないし、そういうのを嫌悪していた人だった)。ただ、こういうけったいな例外はナボコフぐらいだろう…といいたいところだけれど、実はギブスンも未来を「そういうもの」という透明な風景として描いている。意外なことに、「ニューロマンサー」はぜんぜんディストピアなんかじゃないのだ。こういう描き方をしているのは、僕が知るかぎりナボコフとギブスンだけだ。

その種の「透明な」ディストピアは映像ではなかなか存在しない。文学でほとんど存在しないもんが、お金のかかる映像であるわけないわな。と言いたいところだけれど、ソクーロフ

  • 静かなる一頁

はかなりそれに近いところにある。ほんとこれは奇跡のような映画。寝るけど。タルコフスキーなんか目じゃないくらい寝るけど。でもいい。

ただ、多くの場合、ディストピアは風刺の要素を持つ。それが極端か薄いかだけ。映像の話に戻ると

  • 20世紀のどこかの国

なんかそのわかり易い、魅力的な例だ。え、これ何、ってあんた、「未来世紀ブラジル」ですよ。冒頭にはっきり「20世紀のどこかの国」のおはなしだ、って出てくるでしょ。公開当時からこれ、未来の話なんかじゃなかったんですよ。

ただこれ、「1984」の類似品と言われていることが多いけれど、ぜんぜんちがう。「ブラジル」の世界は、実は管理社会ではない。あのギリアムvsシャインバーグの激闘を描いた「バトル・オブ・ブラジル」でも書かれているけれど、これは「情熱の喪失」を描く物語であり、その周囲はいまわれわれのまわりにある抑圧をマンガっぽく拡大して描いた「背景」にすぎない。べつに管理社会の恐怖を声高に叫ぶ作品ではないのだ。

というのもこれ、ギリアムがかつて所属していたモンティ・パイソンのネタがけっこう使われているからで、モンティ・パイソンのDVD(1)に収録されている「ガス調理器コント」なんかまんま「ブラジル」だ。ガス調理器が届いたものの、書類に不備があって、延々と設置を拒む業者。書類。「ブラジル」の社会は「管理者会」というよりは(だってこれ、すくなくとも「1984」のような「監視社会」ではないし密告社会でもないからね)、膨大な手続きの山に人々が殺されていく「官僚社会」のおはなしだ。

そういう意味では、実は大好きな

もまったく同じ系列に属する。いまではかなり普遍的な物語としてとらえられている「1984」だけれども、バージェスが「1984」について書いた「1985」によれば、あれはオーウェルが執筆した当時のイギリスの状況を、かなり正確に反映した、というよりは風刺した、ギャグにすらした、物語なのだそうだ。それも反共とかそういうおっきなイデオロギーのレベルにおいてではなく、物不足がどうとか、映画館がどうとか、そういうレベルからの風刺であり、要するに当時のイギリスに住んでいれば、ほとんど「ネタの塊」みたいな小説と感じられたかも知れない。

ギリアムはアメリカ人だけど、「ブラジル」ははっきり言ってパイソンの再生産みたいなネタばっかりだし、マックス・ヘッドルームもイギリス原産だ。「1984」についてはいうまでもなく。ハックスレーからこのかた、ディストピアといえばイギリスの特産物みたいだ。ロンドンのテロ事件で公開が来年にのびてしまったアラン・ムーア原作の

も管理社会と化したイギリスが舞台だ。これもサッチャー時代のイギリスという社会情勢が強く陰を落としている作品で、イギリス特有のネタがてんこもり。このレジスタンスの「V」の格好からして、「火薬陰謀団事件」のガイ・フォークスなのだ。

陰鬱なブリトンの島が生み出した特産品。そのイギリスといえば、ナチに対する恐怖というやつが強く残っているわけで、

を「ファーザーランド」で描いたロバート・ハリスもイギリスの人。「SS-GB」のデイトンは言うまでもなく。この、ディストピア者にはたまらん小説の映像化は、圧倒的に予算のないHBOのテレビ映画としてなされてしまったわけで、できもショボいものだけれど、しかしやはり、ベルリン刑事警察がSSの一部となり、親衛隊の制服を「普通に」着た刑事が街を歩く日常、というビジュアルはそれだけでご飯3杯はいけるわけで。

(続く)