セブンソード
妙だ。
首はゴロゴロ転がる。足はざくざく切断される(丸太)。そんな物理的切断でいえば最近の映画では並なんだけど、んが、そこから血液がどばっと飛び散ることはない。というか、ほとんど流れない。丸太はやっても地は流れない、ってすげえ変な抑制の仕方だ。
というか、この映画、編集が決定的に妙なのである。ツイ・ハークちうのはだいたい大味な人なのであって、そこに繊細さを求めるのは「ダブルチーム」に泣けなかったとクレームをつけるがごときお門違いではあるけれど、それにしても次々に登場する初出の人物のアップをかなり後半まではさまないまま映像が進行するので、声と顔と名前と行動の一致が中盤過ぎるまで発生しない。これはかなりまいった。ところどころ重要なカットを撮り忘れたんじゃないかという具合に物語が進行していくんだが、それが実はアクションシーンも同様で、この映画の前半部には位置関係がズバリ一発でわかるようなショットが皆無だったりする。トニスコの「マイ・ボディガード」があれだけ細切れに編集されポスプロやカラコレかけまくられてカオス状態になりながらも、観客はせいぜい「ウザい」と思う程度で、物語も登場人物の識別も場所と位置関係も、ばっちり一発でわかったのにくらべ、この映画はそんなカッコつけ編集もポスプロもしていないにも関わらず、人物の顔や位置関係を把握するのがけっこう難しいのだ。ダリウス・コンディがいくら暗い画面を撮ったところで、人物の顔の造型を観客にきちんと示すカットが入っているものだけれど、この映画はそういう段取りをズバっと忘れて暗い画面で登場人物初出とか平然とやるので、観客に強いる集中力のグレードが高い。
細かいこと言っているわけではなく、実は「大味」とは、登場人物の一貫した記述もしくは「リアリスティックな、繊細な」記述(んなものが現実の人間の心理に存在しない以上、それを求めることはむしろ非現実的で映画を馬鹿にする指向だと思うが、それはまた別の話)とか、物語の周到な段取り(そんなものが以下同文)とかそういうレベルに表出されるのではない。むしろ用意された物語をいかに観客に端的にズバリ提示するか、という効率の問題であって、その意味でツイ・ハークはかなり非効率的であり、つまり大味ということなのだが、その大味度が毎回異なるのがツイ・ハークの特徴でもあって、そういう意味では、最近復活したミッキー・ロークが抱腹絶倒の最後を遂げる「ダブルチーム」などはかなり大味度の薄い作品である。「シン・シティ」でミッキーを知った若者には「ナインハーフ」や「〜マルボロマン」や「エンゼル・ハート」など観ずにぜひこれをまず最初に見てほしいと思う。地雷とトラのくだりはツイ・ハーク映画の中でも群を抜いて面白い。逆に「ブレード/刀」とかはやや大味度が高く、ものすごい単純な物語がどうしてこうも変なつなぎ方で混乱させられなければならんのだ(別に時間軸をいじっているというわけではない)、と爽快なアクションを期待してもやもや割り切れない思いにさせられることは必至である。
「センブンソード」は、そうした大味ワールドをむしろしなくていいのに極めてしまった作品だ。そして、そんな大味な世界の中で、ロン毛のドニー・イェンが絶対的な輝きを放つ。彼もまた最初はフードを被っているというキャラづけがされており、最初に顔を出す場面も真っ黒に潰れているので観客は混乱するが、それはともかく物語が進行するにつれ、「ロン毛のドニー」は「さくや妖怪伝」の「ロン毛の嶋田久作」並のインパクトを持ちはじめ、その五右衛門的無口キャラとあいまって(というか、この映画の物語は露骨に『七人の侍』リスペクトなので、ドニーの役柄は久蔵にあたる)、ある種の婦女子の美的需要を満たすだろうことは間違いなく、もしやこれはドニーのオレオレ映画なのではないか、と私が疑いはじめたころ、まさにドニーはそのインパクト大の長髪をなびかせながら、同郷の女性と恋に落ちるのである。
ドニーのキャラが突出してオレオレ化する頃には、ようやく我々観客も「七剣」たちのキャラが把握できるようになって、カットの大味さを観客の補完力が上回りはじめる。こうなればもう何の問題もなく、あとは川井憲次のみごとな川井節に身をゆだねて(中国語のエンドクレジットの中に異様に目立つ、川井ファン御存知「一口坂STUDIO」の文字)、壁を使ったラスボスとドニーの対決を楽しめばいいのである(というか、後半も大味さは変わらないのだが、そんな奇妙に流れにくいカットを川井憲次の音楽が下剤のごとく強引に進行させてゆくさまが笑えたりする)。