林檎種

 とういうわけで

 なんだこれわ。

 おれは本当にこの映画見て「いや、よくできてる。ぜんぜん大丈夫。トゥーンシェードも30分で慣れる。話わかりやすくて間口が広い。ふつーの映画」なんて思ったのだろうか。思ったんだよな。なぜだろう。

 2度目に見た映画で評価が下がるという経験がいままでなかったのだけど、なんかそういうことになってしまった。てか、全然駄目。なんでこれ最初に見てオッケーって言ったのかしら。いや、確かにオッケーだったんだ。1月にイマジカに潜入したときは。いい映画だとは言わないし、好きな映画ではないけど、がんばってるよ、と。狭いシロマサ物の間口を広げようとがんばってて、と。

 なんだ。俺にものすごい人格の変化があったのだろうか。てか、画面見れない。魚蹴さん経由で見た速水螺旋人さんの4月30日と同じ絵ヅラの俺。スクリーンを見られない。半乳の女性がいるわけでもないのに目のやり場に困ってる。だって、目をそらすにはスクリーンというのはあまりにでかすぎて。どうしたんだ。俺はいつからこんなにイントレランスになったんだ。

 いや、まてよ。これはこのオールナイトの上映の順番がイカンのでわないか。攻殻イノセンス→アップル→人狼という順番が。「イノセンス」のあとに「アップルシード」という並びがアップルにとっての不幸なのではないか。1日でも1週間でも、適切な時間をおいてこの2作品を見れば、こんなコンフリクトを起こすことはなかったんじゃないか。いや、別に「イノセンス」が素晴らしくて素晴らしくて「アップル」が駄目だ、というわけじゃない。というか、「イノセンス」のいびつなところは押井ファンなら誰だってわかっている。

 しかし、やっぱ、なんだろう、この「恥ずかしくてスクリーンに目を向けられない」という物理的現実は。なんで俺はこれを以前フツーに見ることができたんだ。なんで俺は「これはこれで評価すべき。『イノセンス』も『アップル』も別の意味で〜」とか言ったんだ。その「別の意味」って何だ。何が悪いんだ。俺の何が変わったんだ。

 というわけで現実が崩壊するキムの館状態が「イノ」ではなくよりにもよって「アップル」のあとに襲ってくるという摩訶不思議。「あっぷるしーどノフウインヲトイテハナラナイ」ってどうしよう。笑えない。苦しい。胸が苦しい。これって恋?

 トゥーンシェードについては何も言うまい。これは大半において慣れの問題、というのは前回から変わらない(とはいえ、表情はやはりつらい)。これはあまりマイナス点ではない。では何がまずいのか。総合的にマズい、としか言い様がない。何が恥ずかしいか、その恥ずかしさをいかに避けるべきか、ということについて、この映画はあまりに無防備なのだと思う。「都市」を映しながらその都市についてダイアログで説明する、というのは実は「イノセンス」でも択捉上空でやっているんだけど、それがなぜかドライブしながらオリュンポスを紹介するヒトミになると恥ずかしさがどっと出てくる。なぜだ(って分かってるんだけど)。なぜだ。なぜこんなにオリュンポスの紹介が民放の観光地紹介じみて見える(聞こえる)んだ。どうして制作者はあんなに「誰も見ていないイメージ映像」、なんか透視された人体がぐるぐるーで生命の神秘起こってますよ〜ぐらいの意味しか持ちえない『尺の無駄』を、平然と流せるんだ。

 わからん。俺はどう変わったというのか。おれはどうスサんだというのか。人間は変化するものだとはいえ、ここまで評価が変わると自分の何かが荒廃していると思いたくもなる。