蒸気駆動少年

 まずい。まさか映画で退屈するとは思わなかった

 といわれてなに書いとるんじゃおのれわ、と言われそうなんですが、実は俺、映画で退屈したことがほとんどないんです。呆れられそうなのですが、自分は今まで見たほとんどの映画は面白かった、という異常な人間であり、駄作とか部分的な欠落とかそういうものは理性ではわかるんですが、映画館を出た、いや、エンドクレジットが出ているときにはすでにある程度の幸福感に包まれている、というまっこと幸せな人間で、いままで「駄目だった」と言ってきたほとんどの映画だって、「いや、よかった」と言えてしまうのです。退屈な音楽はある。退屈な小説はある。けれど、退屈な映画は存在しないのではないか。少なくとも劇場で見るぶんには(ビデオやDVDではいくらでもあります、退屈した経験は)。

 しかし、この映画、何年かぶりに退屈してしまった。

 予測していなかった。なにせこれを最初に見たのは東京ファンタ押井守の「G.R.M」のパイロットといっしょだった。9年前だ。まだ自分は大学生だった。これだけ時間をかけたのだし、アニメは好きだ。大友だ。駄作であっても退屈だけはしようがないだろう。快感であるかもしれない、不快感であるかもしれない、なんらかの感情をぼくにもたらしはしてくれるだろう。これは期待ではない。映画を見て、この程度の予測が裏切られたことはいままでほとんどない。

 しかしこれは、なんもなかった。

 びっくりした。まさかほんとうにこれが大友の映画だとは。いや、大友が好きだとはいわない。「AKIRA」は実はあまり映画としてはうまくない。「大砲の街」は反則技だ。大友はアニメで「傑作」を一本もものにしてない。だから傑作を期待していたわけではまったくない。しかし、駄作と言えども、そこからなんらかの言葉を引き出すだけの体験を、すくなくともほとんどの映画は、ぼくに与えてくれる。映画が、スクリーンで見ることができる、それだけで楽しい。ぼくはそんなお気楽な人間なのだ。本来なら批評ができる類いの人間ではない。なにせほとんどの映画が楽しいのだから。

 そんなぼくが、ひさしぶりに退屈を味わった。部分的な退屈ではない。総体としての退屈だ。

 この映画は、どこまでものっぺりしている。いや、「フラット」という言葉すら批評的タームとして有効化されてしまう2004年のニッポンにあって、それは的確な言葉ではない。俺は映画を見ているのだろうか。まるで、真っ白なスクリーンを見ているかのごとく、そこにはなんの言葉も感情も生起されず、ただひたすら、時間という無情がとおりすぎてゆくだけのようだ。

 アニメは好きだ。スチームパンクは好きだ。ジータ/ブレイロック/パワーズスチームパンク三人衆の小説は好きだし、ディファレンス・エンジンはぼくのバイブルだ。ギア・アンティークやってたしな(昔はTRPG者だったのだ)。大友だって、関心がないわけじゃない。好きなものがそれだけあって、何の感情も生起しない映画というのは、いったい何だろうか。

 いや、面白かった場所がないわけじゃない。やたら「発動」という言葉をいいたがる津嘉山正種は笑った。まるで性欲でモンモンとしている中学生のようだ。「発動しろ!」「発動ぉぉぉ!」発動って言いたいだけちゃうんか、おのれは。

 しかし、それでも、エンディングが流れているとき、この(ぼく自身の)からっぽさはどうしようもない。映画を見てこんなにからっぽだったことは、いままで一度もない(いや、あったかも。しかし手近なところではぜんぜん思い出せない)。ひょっとしたら、これはすごいことなのかもしれない。これは新しい映画の誕生なのかもしれない。だって、ぼくがいままでほとんどすべての映画のエンドクレジットで感じてきた感情を、この映画には微塵も感じないんだもの。

 この映画、子供は楽しいのだろうか。わからない。なにもわからない。ぼくは途方にくれている。映画を見てこんなにフラットだった記憶がないからだ。この映画が、自己満足であったらどんなに納得できたことだろうか。ぼくは自己満足大好きで、自己満足こそ映画を豊かにしてくれるとすら思っている節があるから。しかしこの映画は自己満足ですら、おそらくない。この映画には、いかなる種類の欲望も感じない。当てて金を儲けようとか、あるいはなんとか回収しよう、とかいう卑俗な(あるいはまっとうな)欲望も、あるいは金なんぞどうでもいい、俺は見たいものが見たいんじゃ、という欲望、あるいはみんなに楽しんでもらいたい、という欲望、あるいは、それらのどれかあるいは全てに失敗しているという挫折感。そのどれも、この映画には感じない。それはそれで、いま考えると無気味だ。

 いや、待てよ。そもそも大友に欲望ってあるのかしら。庵野にはある、宮崎にはある、押井にはありすぎるくらいある。しかし、大友の欲望っていったいなんなのよ。そもそも漫画家時代から考えて、このひとの欲望って、ぼくには一度も見えたことはなかったじゃん。

 いま、大友はもっとも無気味な作家なのかもしれない。いや、もはや「作家」とは呼べない存在と化したのかも。いずれにせよ、ぼくの知っている作家のかたちではなさそうだ。

余談:前に浜村編集長が座っていました。上映前にそば屋を見ていました。