ユナイテッド93

 見ているあいだ、ずっと不謹慎な興奮と快楽にとらわれていたことを告白しておきます。

 この映画で描かれる状況で亡くなった多くの人々がいる。エンディングクレジットのキャスト欄に列挙される、想像を絶する「as himself」の文字。そういう映画でこうした興奮を味わうのはなんとも人としてどうよ感がつきまとう。これがフィクションだったらよかったのに、見て、面白がっているあいだ、ずっとそのような罪悪感があった。

 それはとてもとても個人的なツボであり、萌えである。どういう快楽かというと、この映画は指令室映画だということだ。

 指令室を見ていると、私は興奮する。ウォーノグラフィー(ポルノグラフィーのように、戦闘シーンの快楽を売り物にした作品。初出はクラーク「楽園の泉」だったっけ?)ならぬ、コマンドグラフィーって感じでしょうか。エヴァが動いているところよりも、ネルフの指令室見ているほうが楽しい手合い。「アポロ13」で、あれはむしろヒューストンの連中を主人公にすべきだろう!と理不尽な怒りを溜め込んでいた連中。私は、そうした指令室フェチのひとりである。私以外にそんなニッチな変態がいるのかどうかは知らんですが。

 この映画の中盤では、この映画にとっては「背景」となるWTC激突が描かれる。まずハイジャックらしき情報が入り、それをレーダーで追跡し(空というものには、常時、こんなに凄まじい数の航空機が飛んでいるのかと見せつけられ、ぞっとする。空軍のレーダーを埋め尽くす輝点(ブリップ)の芋荒いは視覚的にすごい)、コンタクトを撮りつづけ、近傍の航空機に視認を要請する。アメリカ各地の航空管制が互いに「電話で」連絡しあい、連邦航空管制センターに詰める軍の連絡将校も電話で軍に報告する。管制室の中で携帯で情報を伝達する。映画や小説で、我々はすでに高度に情報化された社会に生きている気になっているけれど、なんでもかんでもコンピューター化されているわけではないのだ。

 この映画では、複数の管制室の間を、不確定で、時には間違った「会話情報」が飛び交う。一応の中心となるハーンドン(ヴァージア州)連邦航空管制システムコマンドセンターと空軍のニューヨーク州ローム北東地域防空指令センター。ボストン、ニューヨーク、クリーブランド、それぞれの管制室。この映画はほぼ完全な室内劇で、ユナイテッド93便と冒頭部以外はすべて管制で展開される。そこでやりとりされる情報の量はものすごいカオスなのだけれども、この映画が面白いのは、それがどれだけのカオスだったかを見せてくれることだ。

 ある、それが起こった「瞬間」があるかのように、ぼくらは思い込む。もちろん激突した瞬間は、あるにはある。しかし、この映画では「どの」航空機が激突したのか、それについて様々な情報が飛び交うのだ。なにせ、その時点で複数の航空機が異常進路、もしくはレーダーから失探(ロスト)していたのだから。どの飛行機がぶつかったんだ?我々はいまでこそあれを「テロ」だと認識しているけれど、この映画では連絡を受けたパイロットたちが「こんな晴れている日にぶつかったって?」などと言ったりする。どうやら自爆テロらしい、ということがわかるのも大分あとのほうだ。事後的な世界にいるわれわれは忘れがちだけれども、「何が起こったのか」のかは瞬間に把握されることではない、というばかりか、何が起こったかを知るそれだけのことが、実は時間を要するのだということを、この情報のカオスは教えてくれる。ここにあるのは、事件を「知る」というのは瞬間的なものではなく、シークエンシャル(逐次的)な作業であり、認識なのだ、という、よく考えなくてもあたりまえなのだけれども、「事後」にはすっぽり忘れてしまう世の中の仕組みだ。

これだけケイオティックな情報の錯綜が描かれる映画なのに、どんな情報が飛び交っているかはしっかりわかるようになっているのが、この映画のちょっとすごいところかもしれない。秀逸なのが、たとえばハーンドンのFAA管制で分かった情報が、何シーンか、すっかり観客が忘れかけた頃にローム防空に届いたり、といった情報のディレイの描写。え、今頃ここにあん時喋っていた情報が届いたの?というタチの悪い伝言ゲーム(会社というものの中で、電話で仕事をしている人は身にしみるでしょう、きっと(笑))や、必要な連絡先は電話に出ず、応対するスタッフはそれ用の人員ではないから対応できないと言う、あのへんの連絡のすれ違い、遅れの塊感がたまらない。

ローム防空も電話の確認にひたすら足をとられる。こういう場合のROE(交戦規定、ルール・オブ・エンゲージメント、だけれども、この場合の「エンゲージメント」は敵ではなくいちおう民間機なので、果たして交戦と訳していいのかどうかは悩ましいところではありますな)はどうなるのか。撃墜してもいいのかいけないのか。機が向かっているニューヨークに戦闘機を入れてもいいのか悪いのか。最終的なROEは大統領が下すのか。いつ下すのか。軍人もまた、電話でそうした確認をせねばならず、相手の応対はまちまちだ。

 コーランを読んで祈りをささげる実行犯たちの描写からはじまる本作は、出ているのがわたしたちがまったく知らない俳優もしくは事件当日の本人、ということもあって、見事なまでに個々のキャラクターによる物語進行を消し去った「状況劇」になっている。そこで描かれるテロリストたち、乗客それぞれが感じた恐怖。見れば分かるけれど、この映画はあまり美談風のつくりにはなっていない(かといって再現ドラマでもないのだけれど)。あの航空機の中で、皆がどのようにしてそれぞれの恐怖と向き合ったのか、それを描く映画だ。それについては、たぶんさまざざまなひとがぼくなんかよりずっとうまく語ってくれるだろうから、ここには書かない。

 しかし、この映画でぼくが一番不謹慎にも「面白かった」のは、ほぼ管制センターしか登場しない中盤だ。これほどモニター濃度の高い映画もそうないだろう。正直、あれだけの航空機が日々空中に浮いて、それをあの管制がさばき切れていることに、ぼくは少なからぬ感動を覚えた(いや、そういう映画じゃないんだけどさ)。「情報の把握と伝達」というただそれだけが、どれだけのコストと作業量を発生させるか、という面白さを、この映画の一部は描いている。

 指令室だけでごはん何倍もいける人には特にお薦め・・・あ、俺だけですか。