映画の中の、架空の才能
私が、矢沢あいの「NANA」や惣領冬実の「THREE」とかいったバンドを描いた漫画を受け入れられるのは、それが漫画だからだ。だって漫画で歌そのものは描けないし、絵画そのものも描けないんだもの。そこにあるのは歌や絵画の表象にすぎないんだもの。
個人的な生理の話なんですが、映画で見るとどうにも自動的に白けてしまう、というよりは苦痛に近いものがあって、それが何かというと、映画の中の架空の絵画や歌やそのライブや展覧会だったりするんですわ。
ということを映画の「ハチミツとクローバー」を観ながらずっと考えてたんです。
この映画にはすごい絵を描く女の子が出てくるわけです。すっごい彫刻を彫る男の子も出てくるわけです。でもその絵を描いている過程がすっごく観ていてツラい。映画の中にある絵画や歌、というのが芸術内芸術というメタっぽさをまとったシロモノではあるわけですが、それが多くの人を感動させていたり、熱狂させていたり、登場人物を感動させていたりすると、そこで私はなんか寒くなり、白けてしまうのです。
実はこの個人的な嫌悪感の正体はまだまだ自分の中で似詰め切れていなくて、同じような白けを持っている人が他にもいるのかどうかわからんのですが、たとえばそれが既存の芸術を描いた作品だと〜つまり「アマデウス」や「愛の悪魔」や「ポロック」や「真珠の首飾りの少女」とかですな〜ぜんぜん構わないし気にならないんですが、たとえば「黄泉がえり」のラストのコンサートなんかはものすごく辛いわけです。この現象は、劇中でより多くの人間が感動していればしているほど度合いを増し、FFX-2のオープニングなんかほとんど拷問に近いんですが、この「ハチクロ」にも個展の場面なんかあたりして、さらに絵書きの才能そのものが話の軸になっていることもあり、そのへんが観ているあいだものすごくツラかったです。「すごい」ペイントをするはぐみも(ってか、映画とあって、さすがに原作通りに乾燥が地獄のように遅い油絵設定は無理だったようですな。映画のはぐの得物はリキテっぽかったです)、その描いている絵も、観ていてものすごくツラかったんです。
「映画のために制作された絵画なり歌なりに多くの人が感動している」という状況、そしてそれらの人々の視線に晒されている絵画なりアーティストの歌なりが「現物」として画面に映し出されてしまうこと、のふたつが辛いようです。繰り返しますが、これをもってそれらの登場する作品を非難したいわけではないですし、なにかの見識が立っているわけではありません。これがたとえば、架空の独裁者の演説に熱狂している群集、とかだったらオッケーなわけです。私は政治と芸術は同じものだと考えているので、この反応の違いは我ながら不思議なのですが。
なんだかハチクロ自体の話にはぜんぜんならなくてすみません。山田を演じた関めぐみさんはすごく可愛いんですが、髪型のせいで3/1進むまでずっと栗山千明かと思い込んでました。はぐみに関しては「絶対アレだろ。『指輪』のホビット方式で、カメラ位置と遠近感の錯覚でやってるんだろ。ガンダルフとフロドだろ」とか想像していたんですが、当然ながらそんなアホな撮影をしているわけもなく、ふつうに身長160の蒼井優さんでした。ただ、漫画通りやったら絶対寒くなっていただろうはぐを、現実が許容するエリアに巧く着地させていたような気がします。
・・・あと、この映画の原作はいちおう私が通っていた学校がモデルらしく、アニメとかでは思いっきり10号館とか7号館とか描かれているんですが(映画のロケは水産大でやってたようですな)、身近だった風景が描かれれば描かれるほど、そこで繰り広げられる学生生活のありようが、漫研のサークルボックスに入り浸っていた自分の青春とはビタ一文関係なくて、「こんな美大は存在しねええええ・・・いや、もしかしたらあったのかな、俺の知らないところに」と、余計に悲しくなってくるところもポイントでした。あんな学校は実在するんでしょうか。俺の周りは野郎ばっかだったんですが。確か俺の年次は女子6割だったと記憶しているんですがねえ。以上、非モテネタでした。
ちなみに、試写は女性しかいませんでしたよははは。男はたぶん両手いなかったんじゃないでしょうか。まして野郎二人で来ていたとなると、座席を見渡した限りでは俺等だけでしょうなははは。