マシニスト

 この映画の主人公は認めたくないものからひたすら目をそらし続けているのだが、俺もこの際だから認めたくないが認めてしまおう。俺はロリ顔の歳上を常に欲望しているということを。なぜここでそんな告白をするのかというと、もはや脱いでいない作品を探すほうが難しくなってきたJJLがこの作品に出演しているというのを全く知らず観にいったので、いじらしい娼婦役として画面に登場した瞬間おもわず口許がほころんでしまったからだ。デビュー作から一貫して脱ぎ続けてきているので、いまさらこの人のおっぱいなど見ても嬉しかないのだが、しかし劇場で見るとやっぱりおっぱいはいいもので、JJLありがとう、と感謝しながら性的にアグレッシブになり、僕を見て、僕を見て、僕の中のモンスターがこんなに大きくなったよ、とDr.テンマに報告したくなった。とはいえ、俺は「未来は今」の脱いでいないJJLがベストなんだが、それはどうでもいい。ついでにいうと、俺は永作博美も大好きである。緒川たまきも大好きである。だからなんだ。

 さらに言えば、俺は中盤まであれがマイケル・アイアンサイドだということにまったく気が付かなかった。あまりに体型が違っていたし、目つきが人を殺しそうではなかったからだ。しかし、あの役がマイケル・アイアンサイドであると理解し、舞台が(何を作ってるんだかまったくわからないが)事故が起こりそうな気配だけは濃密に立ち籠めている工場であるということとあわせて考えるに、アンダーソンはこれをギャグとしてアイアンサイドにキャスティングしたに違いない、と確信した。「トータル・リコール」のエレベータで彼がどうなったか、「スターシップ・トゥルーパーズ」のラズチャックがどういう人間だったか、それを思えばこのキャスティングはギャグ以外の何物でもなかろう。もはや、「志村、後ろ後ろ」の世界であり、アイアンサイドは期待通りの部位に期待通り悲惨な目にあってくれる。

 さて、日本のオタクのあいだではすっかり「ハムの人」ならぬ「ガンカタの人」と化してしまった感のあるクリスチャン・ベールだが、画面で見た瞬間笑ってしまった。いくらなんでもヤバすぎる。冗談ではすまされない死臭がプンプン画面から臭ってくる。監督や脚本家は最初はCGや特殊メイクで処理しようとしていたらしいが(当たり前だ)、月並みな言い方にはなるがやはり現物が映し出されると、そのディテール、皮膚や骨格が醸し出すテクスチャの意外性はたぶん人間の想像力の範疇を越えていて、それは「セブン」の怠惰の罪の犠牲者(ロブ・ボッティン仕事)と比べるにはっきりする。ロブ・ボッティンが拙かったのではない。というか彼は凄い。しかし、やはり現物の凄まじさにはかなわないということだ。クリスチャンの体作り(役作り、とはもはや言うまい)の凄まじさは尋常ではない。「こいつ、死ぬ」と観客をはらはらさせる肉体というのはいったいなんだろうか。

 アンダーソンは頑張っている。「カフカ」でソダーバーグがやらかしてしまったようなことをアンダーソンは周到に避け、不眠症、匿名の街、と「不条理」の誘惑があまりに強いこの物語を、奇妙なバランスで現実に着地させる。謎はない。というか、この映画の「ネタバレ」の仕方に自分はけっこうびっくりした。まるで解答が見え見えの○埋めクイズをやらされている気分だ。脚本家も監督も謎を露出しつつ隠そうという気がまるでないかのように、最初から最後まで親切丁寧に何度も何度も同じモチーフを反復させて「答え、禁じられているから言えないんだけど、ほら、これです、これなんです、みなさんわかるでしょ」というたたずまいで映画は展開していくのだ。反復なんてのは映像の文法としてよくあることじゃん、と言われるかもしれないが、この映画が奇妙なのは、反復していることそれ自体を、観客に露骨に指し示すことにある。言うなれば「いまから反復します。ほら、これ反復しているでしょ。これがヒントなんです」とすべての観客にわかってほしいとでも言うかのように。この映画は反復によって臭わせる、という文法を採用していない。反復箇所を指し示し、それが答えであることを指し示す。その意味でこの映画には「予想」する楽しみはない。このやりくちの実も蓋もなさに、正直俺はびっくりした。

 とはいえ、やはりベールの肉体だ。死。この映画は不眠症についての映画ではない。記憶についての映画でもない。答えはあらかじめ指し示されている。ベールの肉体を見た瞬間、アンダーソンにはある種の確信が芽生えたのではないだろうか。眠れないことも、記憶が断片化していることも、このクリスチャン・ベールの肉体の前にはいかにも弱すぎる題材だ、と。ベールの肉体の前に準備されていた脚本は崩壊したのではないだろうか。いや、脚本の魅力は、というべきか。この肉体が伝えうるものを撮らねばならない。この肉体が宿している、えらくたちの悪い胸のつまるようなものを焼きつけなければならない。その「現物」を前に、この以前は魅力的に見えた脚本は、ヘボいメメントのようなようなもの(「メメント」自体がヘボい映画だ、ということは置いといて)でしかなくなってしまった。

 謎はどうでもいい。映画はこの肉体が牽引する。そんな確信がアンダーソンの中にはあったのではないだろうか。

 これは不眠症の映画ではない。肉体の映画、オブジェについての映画、それが存在するただそれだけのことの凄まじい迫力についての映画なのだ。