マーチの国の神
アメリカはマーチの国だ。
アメリカほどマーチが好きな国はそうないのじゃないだろうか。日本人の我々にとって、パチンコのイメージが染み付いた軍艦マーチはいまやギャグでしかないし、「威風堂々」もなんか行進つーよりは典雅な感じ(いや、勿論行進曲なんだけど)。マーチ王、なんてものすごい渾名をもつジョン・フィリップ・スーザの「星条旗よ永遠なれ」なんて、もうごりごりのマーチ、って感じがする。
「ユージュアル・サスペクツ」以来、いろんな映画音楽からのコピペで済ますジョン・オットマンと一緒にやってきたブライアン・シンガーは、あんま音楽に興味のない監督なのだろう。と思っていた。しかしそれが今回の「スーパーマン リターンズ」では、驚くべき効果を上げることになる。
この映画がもしかして面白かったり、神々しかったりしたとしたら、それは間違いなく音楽のせいだ。もちろん、それはオットマンの音楽ではない。ジョン・ウィリアムズの「スーパーマンのテーマ」のせいだ。
明快なテーマ曲のないヒーロー。
どうしたものか、最近のハリウッド映画のアメコミヒーローはこの「口ずさめる明快なテーマ」ってやつを監督にお預け食らって久しい。エルフマンの「スパイダーマン」はテーマ曲こそあれメロディーラインを持たぬもやもやしたものだし、ヘルボーイもデアデビルも、その点は一緒だ。まあ名曲を毎回生み出せというのは、神もといウィリアムズならぬ身のコンポーザー達には辛いオーダーではあるけれど、ぼくにとって「ヒーローとワンセットになった明快な曲」というのは、エルフマンの怪奇映画風な「バットマン」が最期だった。シューマッカーになったとき起用された現代音楽畑の「上品な」ゴールデンサールに、「テーマ曲」なんておっぱずかしいものが書けるはずもなく、「ロビン」「フォーエバー」はとんと曲の印象がない(あ、でもね、ゴールンデンサールって「agnus dei」って言葉を映画音楽に流行らせたパイオニアだと思うんですよ。ジマーあたりのお手軽宗教チックコーラスでこのフレーズがものすごいお手軽に使われるようになったのって、この人の「エイリアン3」のおかげだと思うのですよね)。
たぶん、シンガーは知っていた。ジョン・ウィリアムスのあのテーマをかければ、この映画は勝利することができる、と。
もちろん、正義と真実とアメリカン・ウェイを口にできるような時代じゃない。しかし、スーパーマンにはリチャード・ドナーの残してくれた、音楽という強い味方があった。アメリカン・ウェイを言葉にせずとも、スーパーマンはアメリカであり、そのアメリカ性はジョン・ウィリアムズが保証してくれる。このテーマ曲なくして、9.11を経た我々に、スーパーマンを提示することは不可能だったろう。このテーマ曲なくして、スーパーマンは神の座につく事はあり得なかったろう。スーパーマンの現神性は、その力ではない。音楽によって付与される。物語として提示するには生臭すぎるアメリカ性を、音楽という非視覚、非言語的要素によって付与することで、スーパーマンは2006年のこの世界に降り立つ事が可能になったのだ。
それは非常に暴力的な体験でもある。ウィリアムズのマーチは、その明快さと迷いを知らぬコードによって、我々の知る現代の霧を吹き飛ばす露払いとなる。音楽が先陣を務め、マーチの騎兵が切り開いた軍勢の谷間を、スーパーマンが攻め込むのだ。傲慢で、他者を慮る心など一片も持たぬ、強権的な音楽。
2006年の混沌は、クリプトナイトなど比較にならぬほど「彼」を弱らせたはずだ。「スーパーマンは必要か?」というロイスの書いた記事を覆す力は、純粋な映画存在としてのこの作品には、ない。2006年の戦争の世紀において、スーパーマンのレーゾンデートルは失われてしまった。しかし、ブライアン・シンガーはそれを切り開くすべを知っていた。
2006年、スーパーマンは航空機を持ち上げることができるだろうか。
2006年、スーパーマンは島をひとつ持ち上げることができるだろうか。
音楽が「彼」に先攻して鳴っていれば、それは可能なのだ。スーパーマンの本体は、もはやその肉体にはない。彼は来る冷戦の終結を予想してか、存在を別の位相に完全にシフトするという選択をとったのだ。鳴っていれば、どんな時代だろうと、どんな場所だろうと、彼はいる。その曲が、力強く、高潔に、傲慢に無神経に鳴らされていさえすれば。
いい映画だとは思わない。ただ、この曲を使うと決めたシンガーは、2006年におけるスーパーマンの生存において、最適戦略をとったのだ。