競技的な種別としての個人戦から集団戦への移行が呼び込んだ、ジェンダーやら文明の衝突やらの政治的事象について

 イラク戦争に対する批判であるとか、ネオコンに対する皮肉であるとか(同じか)、そういう読み方も間違ってはいないのだけれども、それは実は、リドスコがデビュー作から一貫して扱ってきた主題がミクロからマクロへ移項する傾向と、世界情勢が奇妙にシンクロしてしまっただけであって、そうでなければネオコンプロパガンダという誤解を生んだ「ブラックホーク・ダウン」と、ネオコンへの当てつけという評価がある「キングダム・オブ・ヘブン」をたてつづけに作れるはずがない。

 「TV Bros」でミルクマン斉藤はリドリーを「リドリーのノンポリも際まれり」といっているが、それはある意味正しい。が、その後「クローサー」と比較してリドリーを「スキルだけの奴のほうがマシ」といっているところから見ると、世間で良くある「職人監督」としてのノンポリだと捉えているようだなあ。

 しかし、彼は決して節操がないわけではなく、実は同じ主題を描いているだけで、それを政治と絡めて読み込んでしまった場合、「ブラックホーク・ダウン」と「キングダム・オブ・ヘブン」のあいだに政治的齟齬を見い出すことになってしまい、その矛盾を説明する(というより説明を放棄する)ために「ノンポリ」という言葉が用いられたり、あるいは「職業監督」とレッテルを貼って安心したりしているだけであって、実は政治と言う観点をスカっと忘れれば、リドリーはあいもかわらずおんなじものをとっていることがはっきりわかる。

 つまり、いまリドリーの映画の受け取られ方で起こっている事態とは何か。
「二つの存在が出会ってドキドキ→萌え〜orケンカ」が「文明の衝突」と受け取られてしまっている。それだけなのだ。

 最初に書いた「リドリーが一貫して扱ってきた主題のマクロ化」とはそういうことで、「デュエリスト」で衝突していた「ふたつの異なる人間」が、「二つの異なる文化」にスケール的にスライドした、それだけだ。ぶっちゃけ、歳をとるとでっかいものが撮りたくなってきたわけで、主題の「単位」もそれに伴って個人から集団へ、集団から文化へ、グレードアップしただけなのだ。

 それがあるときは生物として相容れない存在との衝突(エイリアン)であったり、人間とアンドロイドであったり(ブレラン)、ブルーカラーと上流階級であったり(誰かに見られてる)、西洋と日本だったり(コレデ、ぱんデモ、カッテ)、男性社会と女性社会だったり(G.I.ジェーンテルマ&ルイーズ)するだけで、そのケンカの後はデレデレであったりツンデレであったりすれ違いであったり両者の破滅であったり単なる近親憎悪であることに気がついたり、バリエーションこそ様々だが、こうしてみると実に同じ話ばっかりで、この軸で見る限りリドリーはいささかもブレてはいない。

 ただ、なんでも政治的にしか映画を見れない困った人というのはどこにでもいるもので、そうした人間からするとこのブレを説明するためには「ノンポリの職業監督」という説明を持ち出すしかない。フィルモグラフィーから見れば実に単純極まる一貫性を、野暮な見方が曇らせてしまうわけで、けっきょくリドリーは「ガチンコ」にしか興味がない、ということなのだ。

 「ブラックホーク・ダウン」と「キングダム・オブ・ヘブン」は二つの文化圏のガチンコ、ということで、実は同じコインの表裏ですらない。ガチンコ好きリドリーという多面体のひとつの面でしかないのだ。

 ちなみに、「キングダム・オブ・ヘブン」に対応する映画は「ブラックホーク・ダウン」ではなく、「1492コロンブス」だと思う。何と言っても「コロンブス」の英語題名は「コンクエスト・オブ・パラダイス」なのだ。「天の王国」と同じものを感じさせずにはいられない題名じゃないか。