交渉人 真下正義

ローレライ」がいまひとつだった理由、それは役所広司演じる艦長、絹見が腕時計をつけていたという理由による。

 潜水艦の艦長が「戦闘を支配する」ことができるのは、彼の明晰な頭脳のためでも悪魔的な戦略のためでも、ましてや船員からの篤い人望のためでもない。それは彼に与えられたあるマジックアイテムのためである。彼はそれによって戦闘を支配する権限を与えられる。それはほぼ万能の権限である。彼がそのアイテムを使用するあいだ、すべての映画的な行為が現実から切り離され、恐るべき力を帯びる。掌のなかに収まった、映画の神から万権を付与された円形の小さな皿。その一点、艦長の親指の下にあるボタンが押されたとき、時空は艦長のものとなる。世界は彼の理論で動き始め、その制圧力は静かではあるが圧倒的であり、なんびともその王権を侵すことは叶わない。

 その恐るべきアイテムを、人はストップウォッチと呼ぶ。

 ボタンが押された瞬間、彼は全知の存在となる。映画は眼に見えるものしか映さない。彼の頭脳の明晰さも、恐るべき決断力も、それは画面に映ることはない。物語で語られるものは、そのような映画という視覚メディアにあっては単なる「説明」でしかない。明晰さを映すことと明晰さを説明することのあいだには、絶望的な深淵が存在する。しかし、ストップウォッチはそんな「視覚でしかない」映画というメディアにあって、登場人物を明晰ならしめる恐るべきアイテムである。登場人物の明晰さを保証するのではない。事態はむしろ逆であり、彼はストップウォッチで時を刻むがゆえに明晰なのだ。

 ボタンが押された瞬間、それ以降の時間は艦長のものとなる。そのあいだ、まるで魔法にかかったシンデレラのように、彼はすべてを知っているしどうなるかをわかっている。かれはその時空で、悪魔的な策を発動させる。ストップウォッチによって与えられた王権がなければ、とうてい実現しえなかったような奇策を。しかしそれは成功する。なぜなら彼はストップウォッチのボタンを押しているから、ストップウォッチによって時を刻んでいるからだ。

 時空が解放される。通常の映画的時間が戻ってくる。しかし敵はすでに敗北している。

 ここまでくれば、絹見艦長の敗因は明らかだ。腕時計などという、はじまりも終りも宣言することかなわぬ、ただひたすら怠惰に時が流れ続けるだけのシロモノに、戦闘を支配することなどできないのだ。彼は潜水艦の艦長という神に等しい役を与えられながら、その王権の発動を一度も宣言することなく映画から曖昧に消えた。

 そんなストップウォッチの王権は、たとえそれを授けられたものがユースケ・サンタマリアであろうとも、揺るぐことはない。ストップウォッチの映画的聖性は絶対である。

 ストップウォッチが「交渉人 真下正義」の物語になんら貢献しない、という事実はまったく問題ではない。むしろ、説話的な義務から解放されたことによって、ストップウォッチは純粋な映画的暴力を、破廉恥なまでに画面に放出するからだ。物語から解放されたストップウォッチは、純粋に王権を発動するアイテムと化す。その禍々しいまでの力はほとんど麻薬のようで、権力欲のような世俗的な欲望すら生み出すかもしれない。我々はストップウォッチを持つ真下に嫉妬する。かれがストップウォッチに愛されているがゆえに。彼が王権を独占しているがゆえに。

 犯人から電話が入る。彼は通話を開始し、同時にストップウォッチのボタンを押す。こうなればもう、すべては主人公のものだ。その判断がたとえカンであろうとも、幸運であろうとも、それがストップウォッチによって刻まれた聖なる時間の中で行われたことである限り、それは明らかな明晰さと悪魔的判断によってなされたことである。犯人がトリッキーなキャラクターを持ち出そうと、かれはすべて見すかしている。なぜなら、かれはストップウォッチによって刻まれ計測された時間の中にいるからだ。

 かれはだから、王座から出る必要はなかったのだ。彼が地下鉄管制室から出ると同時に、ストップウォッチが画面から退場するのは実に象徴的な展開である。彼は映画を支配する力を失った。彼のいかなる奇策も明晰さも、もう以前のような映画的説得力を得ることはない。なぜなら、彼はストップウォッチを手放したから。彼の王権は何ものによっても保証されていないから。ストップウォッチを手放した瞬間、彼は戦闘を支配する力を失ったのだ。

 というわけで、俺の中ではこの映画、潜水艦映画として「ローレライ」より数段優れている、ということになりましたが、よろしいか。