ヴィレッジ
はじめてこの人の映画を見るというのならともかく、いまさらこの天然なオッサンの作劇もとい「オチ」に期待している人などいないわけで、とくに「サイン」という奇っ怪な映画を通過してきた観客ならば、それはもう嫌というほどわかっているに決まっている。
「オチ」ではなく、サスペンスでもない。なぜなら「映画の外」に溢れる映画外からの情報によって、我々はこの2時間という体験の大半をどのように過ごし、最後にどのような物語的操作が行われるか、嫌というほど知っているからだ。そのうえで「オチ」に期待する人はあまりいない。そもそも観客を驚かせようというのなら、当然だが「オチ」があることすら隠蔽しておかなければ意味がないからだ。だが我々は「ヴィレッジ」においてそのような仕掛けがあることを知ってしまっているし、そうなるとその「オチ」がどのようなものであるかは、ほとんどディテール、細部の問題であるということになってしまう。驚かされることを予期しつつ驚く人間はいない。
といところからこの映画の何を語れというのか。阿部和重は「映画覚書」において「ドキュメンタリー風の映像」によって醸し出されるリアリティを断罪した。その種のリアリティは要するに撮影技法の選択によって容易に獲得されるものにすぎない、と。かれはそれによってダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」を批判的に観つつ、その先駆としてのカサヴェテスや、現在進行形のフォン=トリアーを、そのスタイルによって獲得される仮構のリアリティを超えた試みとして賞揚する。
シャマランの映画に特徴的なのは、一見してわかるカメラ、というか画面設計の端正さだ。ハリウッド映画らしくない、というかクラシックなハリウッド映画の匂いすら感じさせる落ち着き払ったレイアウトに尺。これがベストだという構図でズバリ物語を伝えてしまうストイックな的確さ。人物の位置関係の伝達を優先度においてはほとんど最低にしたうえで、複数のアングルを短い尺のカットで激しく切り替えることによって、総体として曖昧に伝える「不経済な」最近のハリウッド映画の潮流とは明らかに別の資質だ。
しかし、シャマラン映画に何本もつきあってきたぼくらは知っている。そうした「端正さ」すらも、阿部和重が指摘した疑似ドキュメンタリー性と同じく、単なるスタイルとして容易に獲得できるものなのだと。そこに至って端正さは単なるネタと化し、「どうしようもなくくだらないネタを、伊武雅刀のイイ声が端正に語る」ような(妙な喩えで申し訳ない)笑いを生むわけなのだ。
「B級映画のネタをやたら端正に撮る」これはネタなのかこのインド人のおっさんの天然さなのか。それを判別することはぼくにはできないけれど(後者の方が状況としては面白いのだけど)、そのスタイルの不釣り合いさがマックスに炸裂してしまったあげく、心ある映画ファンの至極真っ当な怒りを買い、もう二度と映画が撮れないんじゃないだろかこのオッサン、いやそうでなくてもこれが冗談だとわかったらキリスト教原理主義者に殺されるぞ、というほどグロテスクに不釣り合いになっってしまったのが「サイン」だった。これはほんとにびびった。オチではなく、物語でもなく、この物語がこんなふうに語られていいものだろうか、という作り手のあまりの面の皮の厚さにビビったのだった。だって、バットだぜ。バット。ホアキンまじ飛び退きだぜ。ホアキン矢追映像観てまじ恐慌だぜ。そんなどうしようもなくネタ臭い状況をカメラはあくまで端正に、通常の物語が進行しているかごとく、平然ととらえているんだぜ。
というわけで、シャマランの新作もまた、「ネタを端正に語る」シャマランのパタンを楽しむものになるか、と思いきや、今回はネタそのものが映画の中でネタ化されているという二重の段取りを踏んでおり、今回はそこが微妙なのだ。ネタがネタ化されたとき、そこに生まれる奇妙な客観性が、端正な語り口と至極あたりまえのバランスをとってしまうのだ。
つまり、この映画はネタがネタではない。ネタは物語の中ですでに相対化されてしまっている。観客がネタを相対化する余地は残されていない。その結果、まっとうな物語と、撮影を含む語り口とは、ごくごくつまらない調和を保ってしまった。要するに、この映画はフツーなのだ。シャマランの静かに狂っている感じが楽しかった自分にとっては、この映画でシャマランは自分の最大の武器を封じてしまったように思える。
というわけで、この映画はシャマラン映画としてはあんま面白くない。が、シャマランの新たな展開を見せる映画でることも確かだ。彼が、女優をこれほど奇麗に撮ることのできる監督だとは正直思わなかった。いや、これに関してはシャマランというよりはコーエン作品でおなじみのDP、ロジャー・ディーキンスの力によるものかもしれんですが。
とにかく、ブライス・ダラス・ハワードなのだ。
シャマラン映画としてはおもろない、が、彼女をひたすら見せてくれるというただ一点においてこの映画は偉大である。この映画の中における彼女はひたすら美しく撮られ、ひたすら可憐に描かれている。なんというか、幸福なのだ。幸せなのだ。萌えというやつだ。今年見た映画の中で彼女がいちばん萌えた(いまんとこ)。
という、この一点においてこの映画は偉大だ。最近映画を語る語り口が萌えだとかかわいいだとかそんなんばっかで自分でもどうかと思うが、やはり年をとると自分に素直になってくるもので、そればっかりは仕方がない。決して「美人さん」ではない。んが、この映画のブライス・ダラス・ハワードは最強に近い。たぶん単体で、あるいは他の映画でこの女優さんをみても「ふ〜ん」だったろうと思うが(ドッグヴィルの続編でニコールの後任になったらしいですね)、この映画の物語とキャラクター設定は、ひたすら彼女を美しく、可愛く撮るためにあるのだと思う。この映画は彼女を見るためにあるのであって、それ以外の機能は存在しない。現に、前シャマラン作品に引きつづいて出演のうえ、クレジットで主席のはずのホアキンのヘタレというか存在感のなさっぷりは、それ以外に説明がつかない。「打て!メリル!」のホアキンがこんなに存在感が薄くていいはずがない。
というわけで映画はひたすらどうでもよかったが、俺は彼女を観に行くためもう一度劇場に脚をはこぶことにする(ええ?)。