「すまない」という言葉を呑み込み続ける王の物語

 アーサー王はそこにいた。「すまない」という想いを立ち上らせながら。

 というわけで、「マッハ!!!!!!!!」の試写のあと、ビッグサイト夏の陣の準備というオタクの修羅場に突入していたので、二週間も映画館に行ってなかったのだった。原稿そのものは終わったんだけど、終わったらなぜか仕事がぐんぐん忙しくなってしまい、ええい、もう耐えられん、と映画館にいかねばどうにかなりそうだったので、近くのシネコンに行ってはみたものの、あれは観た、これはパス、とラインナップにほとほと困ってしまい、実は「茶の味」が観たかったのだけど失恋の後遺症でカップルを見ると憎悪がつのる渋谷恐怖症の俺には土曜日に渋谷に出るというのはあまりにつらすぎて、そういうわけで消去法的にシネコンのラインナップから選んだのが「キング・アーサー」だったのだ。

 カイマー映画、なのでカイマーでしかないだろう、とは思ったのだけど、アメリカでコケたというから、コケたカイマー映画のパターンを思い描いてみた。

  1. 子飼いを意のままに操った結果壮烈に凡庸な映画が出来上がってしまったのだが、その凡庸さが針が一周まわって極めたために、凡庸さが転じてむしろ奇怪でグロテスクな映画になってしまい、それはそれで相当面白かったのだけど、面白すぎるがゆえに受けなかった「パール・ハーバー」とか「バッド・ボーイズ2」とかのベイ映画。
  2. リドリーの暴走をカイマーが抑えあぐねているうちに、道徳面を抜きにした戦闘と軍事的状況にしか興味のないリドリーの正直さがフリチンで露出してしまった結果、あまりに面白すぎる映画が出来上がってしまい、英雄云々の付け足しの不誠実さがアメリカの観客にバレ、面白すぎるがゆえに受けなかった「ブラックホーク・ダウン

 というわけで、この映画はどっちのパターンなのだろうか、と考えると、監督のことを考えないわけにはいかないんだけど、この映画の監督のアントワン・フークアという人も「リプレイスメント・キラー」というあまり印象に残らない映画を撮って、ああ、プロパガンダ・フィルムズのPVあがりね、とか思っていたら「トレーニング・デイ」なんていう変な映画を撮ったりして、それがなかなか普通にどっしり映画していたので、ほかのプロパンダ組とはちょっと違うな、とか思ったら「ティアーズ・オブ・ザ・サン」というこれまた微妙に位置付けの難しいアクション映画を撮って、なんだかキャラのつかめない監督であることに気がついた。

 とはいえ、カイマーが「史劇ブーム」という実態の怪しい実在するんだかないんだかわからんものに特殊能力としての軽薄さを発揮してのっかって、脚本に「グラディエーター」のフランゾーニを据えるあたりはもうどうしようもなく露骨で笑ってしまうのだが、そのうえ「グラディエーター」「ラスト・サムライ」と最近の戦争映画全部やってる気がするハンス・ジマー@現リモート・コントロール、とくればこれは企画書を読んで笑わなかった出資者はいるのだろうか、と勘ぐりたくなる。

 そんなことをつらつら考えているうちに、映画がはじまった。

 ヘンな映画だ。ブラッカイマー節なようでいて、要所要所を脱臼させている。多分この映画好きだ。カイマー色が薄いという意味では、フークアの勝利だと言えるかも知れない(とはいえ、編集で相当痛めつけられている気がする、そんな繋ぎ方が感じられたけど)。何がヘンかというと、タイトル・ロールたるアーサー王がヘンなのだ。

 この映画の勝利(ぼくは面白かったので、勝利ということにしておいてくれ)はたぶん、アントワン・フークアの演出によるものではない。この映画を奇妙なものにしたのは、ひとりの俳優の顔、クライブ・オーウェンという俳優の顔なのだ。

ボーン・アイデンティティー」でこの俳優が殺し屋として登場したとき、なんだか妙なキャスティングをしているなあと思ったものだった。なんか抑圧されているというか、内側に穏やかに壊れていう顔だ、と思ったのだ。緊張感のない陰鬱さ、というべきものをたたえながら、マット・デイモンとの戦いで「仕方がない」というように死んでいく。だから、ブロスナンの降番騒動で次期ジェームズ・ボンド候補にこの俳優の名が挙がったとき、ぼくは「違うだろー」と思ったものだった。この俳優に外向きの力はない。この俳優の「奥ゆかしさ」は絶対にボンドには似合わない。

 その思いは正しかったと、この「キング・アーサー」を観て思った。

グラディエーター」のマキシマスはカリスマとして描かれ、ラッセル・クロウもそのように演じている。「ラスト・サムライ」の渡辺謙もそうだ。実現できているかどうかはともかく、彼らは「人望篤きカリスマ」という造型でそれぞれの指揮官を演じている。

 しかし、「キング・アーサー」のアーサーは、クライブ・オーウェンは違う。この映画におけるアーサーには外向きの力はない。彼は説得したり改宗させたり士気を鼓舞したりといったことをしない。というか、最後に一回だけ士気を鼓舞する演説が入るのだけど、そこが猛烈に板についていなくて笑ってしまう。なぜかというと、 彼はこの映画において、終始一貫して「申し訳ない指揮官」として描かれているからだ。

 クライブ・オーウェンの顔は美形ではない。それどころか、強そうですらない。彼は兵役から解放される日を愉しみにしていた円卓の騎士に、お上から命じられた理不尽な命令を伝えるとき「これは命令だ」という。「すまない」その一言をぐっと呑み込んで。しかしその「申し訳ない」思いはぜんぜん呑み込みきれてない。クライブ・オーウェンの顔が、たたずまいが、「申し訳ないオーラ」をものすごい勢いで振りまいているから、彼に従う騎士達もまた、その「すまなさ」を理解する。かれはある意味「護られる」主人公だと言える。この映画で彼は繰り替えし繰り返し理不尽な圧力に遭遇し、そのたびに「すまない」オーラをふりまいているのだ。

 「ラスト・サムライ」の渡辺謙はそんなふうに部下に責任を感じたりはしなかった。なぜなら、全員ががっつり承知で闘っていることを知っていて、それでいいと思っていたからだ。しかし、アーサーは部下の死に責任を感じ、自分が死ぬべきだったとすら言う。すまない、すまない。そんな懺悔を胸の奥に幾度も幾度も呑み込んで、彼は部下の騎士たちに命令を下す。この映画が結果として地味になるのは当然だろう。この映画は「すまない映画」、悔悟の念をひたすら呑み込む男の映画なのだ。

 そのうえ、彼が信じる世界は失われ、その目的は空虚と化してゆく。自分が信じた輝かしいローマはもう存在しない、ローマはすでに腐り果ててしまった、と彼は教えられる。薄々感じていたそのことを、彼がはっきりと教えられたとき、彼は「そのために」騎士であり剣をとることを選んだ根拠を失ってゆく。それはローマの栄光だけではない。「あなたの信じている世界は存在しない」とアーサーは劇中なんども言われ、そのたびに弱くなっていくように見える。自分の世界を否定されまくる王、こんな作劇が爽快感につながるはずはない。この映画で、彼はひたすら「動機を簒奪され続けるリーダー」として描かれる。そしてまた、かれの自責の念は募り続けるのだ。

 円卓の騎士たちはそうした指揮官の「すまない」を汲み取ってやる。お前が俺たちのことを考えてツラいのは知っている。だからこそ、俺はあなたを放っておけないんだ。こんなふうな慕われ方をする王、というのはやっぱりヘンだ。メル・ギブソンは「自由のためだ!」と言って長脛王リチャードの軍勢に部下を向かわせた。自由を勝ち取るためなら、自分の命は当然としても、そこに参加する兵士の命も同じだろう、と。渡辺謙もまた、自分達の生き方を、美学をまっとうするために、ガトリング砲を装備した官軍に鎧兜で全滅覚悟の突撃をする。部下もその美学を共有していると信じているがゆえに。

 しかし、この映画のアーサーは言う、「人は生まれながらに自由なのだ」と。彼の信仰しているペラギウス派の異端は説く。原罪は存在せず、運命などない、と。人は善行を積むこと、善であることによって、自力で救済されるのだ、と。この映画では「神の支配」をそのままスライドさせて「ローマの支配」を正当化する正統教会が悪とされる。人はみな自由なのだという考えを持つアーサーは、それゆえに、その「自由」のために他者を死へ赴かせることにすら罪悪感を抱く。個人の選択を強制することを、「自由」の名のもとに他者の自由を奪うことに自責の念を抱く。「すまない」彼は指揮官としては口にしてはならぬその言葉を呑み込んで、騎士達を死地へ赴かせる。騎士達もまた、その呑み込まれた「すまない」を受け取って、戦いに赴く。
 ここで言う「自由」は「自由意思」であり、丁寧に説明されているそれを政治的自由=正義に直結させて「正義の押し付け」みたいな話にすると、この映画は意味不明になってしまう。アーサーはそうした「自由意思」を信じているがゆえに「ついてこい」の一言がいえない男なのだ。ようするにイケイケ型カリスマをフークア、そしてオーウェンの「顔」が封じてしまったのだ。自分の部下になにをも強制させることのできぬ王、そんなけったいな描写を、この映画ではやろうとして、ある程度成功している。

 ただそれをフランゾーニの脚本が描いているかというと、そうではない。というか、そう描こうとしているのだけど、ときどき活発なアーサー王が我慢しきれず(脚本のレベルでは)顔をのぞかせて威勢のいい台詞を言わせようとしたりしている。
しかし、そうしたすべてを「すまない」の文脈に回収してしまっている強力な力がある。それこそがクライブ・オーウェンの「耐えた顔」「申し訳なさ顔」だ。彼は弱くはない。むしろ肉体的には強いだろう。しかし、彼の、アーサーを演じる彼の顔と背中には、いつも「すまない」という言葉が張り付いている。彼の顔が、台詞の上では「外」へ向かっているはずのアーサーの台詞や行動を、ひたすら責任と悔悟の暗色に彩られた、重々しい、内向きのものに転化させてしまっている。

 そしてそんな指揮官を「自分の意思で」助ける騎士達の清々しさが、この王の内向きと対称を成している。だから、かれらがブリテンを去らんとするとき見える、昨日までの主人の、丘の上に単騎で戦旗を掲げ立つ姿、それを望遠で抜いた騎士の主観ショットに、ぼくはちょっとうるっときてしまったのだ。いかなる悔悟の念とも、いかなる「すまない」とも無縁で、「せいいっっぱい」立つアーサーの、この映画で唯一ともいえる晴れ晴れとした姿、そしてそれを見届ける騎士の目線に。このショットはほんとうによかった。この「丘の上に立つアーサー」の姿のためだけにこの映画を観て良かった、とさえ思えたものだ。

 だから、そのあと騎士達に「自由」を説くアーサーの姿はなんだか思いっきり場違いな感じがする。そして彼がブリテンの王となるラストシーンも、同じように気持ちが悪い。オーウェン自身、なんで俺が王に?というような戸惑い顔を終止浮かべているし、キスもまたぎこちない。彼とグウィネヴィアのラブシーンもなんだか調子はずれの音が入ってきたような印象だ。なぜかと考えたが、「すまない」の人アーサーが、他者の肉体を「利用」することで快楽を貪ってはイカンのだ(笑)からだ、ということなのだろうと思う。まあ、ここでのアーサーは受け身(笑)なので文脈的にはギリギリオッケーなのかもしらんが、しかし、キーラ・ナイトレイって18歳やんけ!クライブ〜!18歳の少女とラブシーンってどういうこっちゃ〜!「ジョセと虎と魚たち」で妻夫木くんが上野樹里タンともつれこむ場面を連想してしまったやんけ(あのとき樹里ちゃんは17、8だったんでしょ?)!

 まあ、それはともかく、この映画は主人公の造型がヘンに地味、というかクライブ・オーウェンを主役に据えたことによって「すまない」指揮官という妙なことになってしまったために、あまり派手なことができなくなってしまったのでしょう。とはいえ、この映画のキャラ造型は一件ステロタイプに見えてなかなか一筋縄ではいかないところもあって、そこらへんは「トレーニング・デイ」の手腕が光ります。特にサクソン人の大将を演じたのステラン・スカルスガードがなかなか良い。単純な悪役ではなく、なかなかに面白いキャラ造型がなされた人物であります。この映画、短くさりげなく手際よくキャラ立てしてます、意外なことに。それと、まるで活躍しなかったマーリン。劇中では顔に炭塗りたくって、いわば土人化しているために誰が演じているんだかさっぱりわからなかったんですが、あとでクレジット見てびっくり。スパイ・ゲームでCIA官僚のハーカーやってた、スティーヴン・ディレーンじゃん!

 まあ、とりたてて話題になっているふうでもなし、カイマーで大作でということで見下されている感じでもあり、また戦争史劇かいなと飽きられているふうでもあり、あまりいい評価は聴かないこの映画ですが、私、地味に好きです。なんだか妙なツボにハマってしまいました。

 まあ、キーラ・ナイトトレイの衣装で潰された(へこんだ)胸が猛烈に萌える、というのが大きいわけですが。