ニコラ

基本的にジャームッシュ時空ではあるのだが、映画も半ばまで来て、あのリズムに慣らされたところで、唐突にテスラコイルを導入する、というある意味卑怯な反則ぶりはジャームッシュっぽくない気もする。コーヒー&シガレッツあんま関係ないし。ほかのエピソードに流れるユルい時間にくらべ、このテスラ・コイル話だけ明確にコントを目指し、またかなりの純度でそれを達成しているので、まあ一番わかりやすく笑えはしたのだけど、それにしてもちょっと、どうかと。あと、トム・ウェイツロン・パールマンって似てる。

しかし、ケイト・ブランシェットって聖女モードか、はすっぱモードしかないような気がするんですが、気のせいですか。

ワンダフルデイズ

 なんだ、この既視感は? しかも恥ずかしい既視感だぞこれ。

 いや知っている。これはかつて俺達が通り過ぎてきた道に似ている。80年代後半〜90年前半のOVAの匂いだ。リアル系の作画で「世界脱出系」の話を延々とやっていた頃の。話も懐かしいし、作画も懐かしい。その懐かしさがたまらなく醜悪で、ときどき画面から眼を反らしたくなることもしばしば。お前の忘れたかった過去がここにある、みたいな。ゴジラキース・エマーソン聴いたときも「80年代との和解は不可能である」と思ったものですが、それに近いツラさ。

 そんな作画のタッチではあるのだけど、そんなデザインのキャラがフルアニメで動くと妙に気持ちが悪いのは私が日本人だからなんでしょうかね。ディズニーキャラが1Kで動いても気持ち悪くないんだけどなあ。いや、やっぱ作画がこなれてないんじゃないか。動きがやけにもっさりしている。ディズニーの力感も、日本アニメの省略の快感もなく、慣性の関数の設定をミスったゲームのモーションを見ている感じ。そこはスカっと突き抜けるだろフツー、みたいなモーションで、妙な書き込みをしてベクトルを殺す、みたいな。

 とまあ、そんな違和感とか恥ずかしさとかをむしろ楽しんでしまいました。ラグナのキム・ヒョンテの画集とか、Yogurting(ヨーグルティング)の洗練されたキャラとか見てると、むこうのキャラデザ感覚もけっこう日本の美的感覚に近づいてきてるのかな、とか思ってたんですけど。やっぱり別の国、別の美的選択ラインがある、というしごく当たり前のことなのかなあ。

 これなら日本のアニメ、まだまだいけるかも。

ネゴシエーター

スピンオフ、織田ちゃん出てくれないし、みたいな企画ですが、実は本編2作よりはるかにまっとうな映画になっているってのはどうよ。少なくとも「2」より10倍ちゃんとした映画。なにげに本編より予算多くないですか?

しかし、パトレイバーネタが今回はある意味ロコツだなあ。パト1で最終的にカットされた「帆場は実は○○しなかった」ネタに、カラスの群れを絡めるって、いままでで一番わかりやすい参照項。

詳しくあとで書くかも、書かないかも。