善き人のためのソナタ

認めたくないことだが、世界はおっさんによって動いているのだった。

何をいまさら、と言われるだろう。あるいは、女性だっているじゃないか、と言われるかもしれない。国会中継を3秒見ればそれくらいのことはわかりそうなもんだ。「生む機械」「健全な」発言の柳沢さん、あれについて女性の権利を云々、とか言葉尻捕らえてこのマスゴミ云々、とか右左いろいろ言い合ってはいるけれど、皆まずなによりあれがきわめて美しくない、という単純な事実を忘れているのではあるまいか。あれはきわめておっさん的発言であり、おっさん的思考なのだ。世の中には「おっさん」というきわめて美しくない、存在そのものが無様でいかんともしがたい生物が存在しているのであり、厄介なことに政治家になる人間というのは、多かれ少なかれおっさんを属性として持っている人間なのである。私に言わせれば、政治家になる女性もすべからくおっさんである。おばはん、ではない。あくまでおっさんなのである。

偉大なる主席の息子でらせられる正男くんの、何かのクリシェを積極的に演じているのではないか、と批評性すら勘ぐってしまうほどのパーフェクトなおっさんっぷりは、おっさんの視覚化において極限である。あれ以上のおっさんを発見するのはなかなか難しい。無論、ソ連や東欧にぼくが抱いているような幻想を北朝鮮に求めるのはお門違いだとはわかってはいる。そもそもあそこは社会主義国ではないのだから。しかし、それでも──あそこまでおっさんっぷりを全開にしてしまうのはいかがなものだろうか。

ぼくがファンタジーとしての社会主義に萌え萌えするのは、そのイデオロギーとシステムの現前っぷりがたまらないからだ。人間という言葉、個人という言葉が無意味な地平へぼくらを叩き込んでくれる、いわばその非おっさんっぷりが辛抱たまらんからだ。個人がきれいさっぱり消滅する悪夢的な地平の美しさは、究極の俗物的個人主義による醜さ滑稽さとは対極にあると言っていい。おっさんのいない世界として、ぼくは社会主義全体主義を夢見ている(わかってるとは思いますけれど、ファンタジーとして、ですからね)。

しかし、認めたくないが、たぶんスターリンはまごうかたなきおっさんだったし、レーニンだっておっさんだったと思う。社会主義だっておっさんによるおっさんのための国家だったし、システムだったのだ。

シュタージ、という言葉だけで萌え萌えしてしまうぼくが「善き人のためのソナタ」を見に行ってショックを受けたのは、そこに映し出された東ドイツの、あまりにあまりな、ぼくらの社会とそう変わらぬおっさんっぷりだったのだ。

人間を抑圧するシステムがあって、それが如何ともしがたい結末へ主人公を導く、というように、この映画の東ドイツは(実は)描かれていない。この物語はすべて、ひとりのおっさん的大臣によるおっさん的欲望の爆発の結果として描かれる。実際、この物語を仔細に見ていけば、これが決して東ドイツ(もしくは旧ソ連衛星国)でしかありえなかった物語では「ない」ことがわかるだろう。なにせ、この悲劇はすべて社会主義イデオロギーともそれが作り上げたシステムとも無縁な、おっさんの欲望によって引き起こされるのだから。

「すげえシャンだぜ、やりてえなあ」とヌかす大臣、「出世してえから夜露死苦」とほざく同僚。ものすごいおっさんっぷりである。そしてすべての悲劇は始まる。ほんとに。ぼくが「社会主義もの」「全体主義もの」に抱いているファンタジー微塵もない。果てしない俗物どもの世界がそこには広がっているばかりである。

そんなこの映画の中で、いちばんイデオロギーに忠実なのは、ほかならぬ主人公だ。おっさんどもが牛耳る世界の中で、彼のみが正しく共産主義イデオロギーとその社会に忠実であろうとする。おっさんの欲望の手足として使われることに、苛立ちと罪の意識を感じている。彼は国家に、イデオロギーに忠実であるがゆえに、国家に対する裏切りを監視者でありがなら黙認していく。もちろん、彼が「善き人のためのソナタ」を聴いて涙を流す、という古典的な「美を経由した目覚め」はあるんだけど。

ここに於いて、システムそのものが目的であったような(わくわくするような)全体主義の不条理さはその不条理ゆえの不気味な美と魅力を破壊され、恐怖政治のシステムをおっさんが利用する、という醜くも健全な、つまりはフツーの次元に着地する。そこにはただ、おっさんによる世界が広がっているばかりである。

もう、「世界のどこかにぼくらとはまったく異質な思考の国家がある」という憧れは許されないのだ。あの場所も、そしてあの場所も、結局はおっさんによる世界だった。そんな寂しさが、映画館を出たぼくを包んだ。

あ、ちなみに映画そのものは傑作だと思いますです。はい。ソ連衛星国的殺風景に萌えられる人必見。