理由という名の病

ある青年が癌になった。それはどうしようもなく進行していて、余命は3ヶ月だと診断された。3ヵ月後、彼はこの地上から消えることになる。

死を目前にして、すさまじい恐怖の中ですさんでゆく男。それはまるで、残り少ない命を無駄遣いするかのように。死にたくない、死にたくないと叫びながら、彼は手首を切る。死にたくないのに怖いから死んでしまおうという倒錯が彼を捉える。

しかし、そんな彼の前に、ささやかな奇跡が訪れた・・・。

という物語があったとして、主人公が癌になった「理由」なんて求める読み手や鑑賞者がいるだろうか。もちろんいない。若くして癌になるのに、そもそもほとんどの場合理由などないからだし、物語の主眼は、彼が癌によっていかに絶望へと叩き込まれ、そこからささやかな希望を足がかりにして、残り少ない命をいかに見つめなおすか、というところにあるからだ。このお話を見たあとで「でもさ、主人公ってなんで癌になったの?それがわからないままなんて、駄目だよね」とか言う人間はいるだろうか。癌の理由を尋ねる人間などいない。

なのに、みんな「子供がいなくなった世界」の理由は知りたがる。

通り魔に長男を殺された家族、という発端の物語があるとする。子供の死によって、この一家はばらばらに壊れてしまった。さて、この前提から数種類の物語を考えることは可能だろう。まず「なぜ、息子は殺されなければならなかったのか?」という「犯人の動機」を家族が追求してゆく物語があるかもしれない。ただ、この場合なにぶん通り魔で、言ってみれば理由無き殺人、運が悪かったとしか言いようが無い「災害形」なので、落としどころがむつかしい。社会のゆがみとか、世間の無関心とか、そういう凡庸な例ならいくつも出てきそうだけど。この場合、いわば真相究明型のミステリ的要素が物語を牽引することになる。

さて、あの前提から他に物語る方法もある。たとえば、突発的な不幸によってばらばらになった家族が、さまざまな出来事を通じて癒されてゆく、もしくはもっと荒廃して行く、あるいは今風に最終的に何も変化しない、そういう物語だ。この場合、通り魔が子供を殺した「理由」はまったく重要視されない。それは「前提」に過ぎないから、突如振りかかかった理不尽な暴力に過ぎないからだ。

ただ、ぼくは「理由」がない物語がリアルで本物の映画だと言いたいわけじゃない。上の物語は、ふたつとも別物であり、どっちも普通にアリだろう。

なのに「『原因不明』で子供が生まれなくなった」ときちんと説明している物語に、なんでその理由を説明せんのだと言う人がいる。ぼくはこれがとっても不思議でたまらない。

思うに、それはたぶん、「空気嫁」に近いフィクションの読解力による違いなんじゃないだろうか。件の映画で言えば、始まって15分あれば「ああ、これは原因究明型の物語ではないんだな」と無意識にわかるはずだし、そもそもそんな「理由が解明される」ことが機能的な効果を物語に付け加えるような種類のフィクションではないことがわかるだろう。フィクションにはいろいろなタイプの物語があり、それは作り手の志すものによって異なってくる。『空気が読める』人はそれを意識することなく理解して、物語に乗ることができる。

これは不条理の楽しみ方という話ではない。ぼくらの住んでいるこの世界だって、理由の分からない病気や自然現象は山のようにあるからだ。現実世界がそのようにあるのに、なぜ「子供の生まれなくなった」理由など映画の中で説明せねばならないのだろう。

もちろん、説明してほしい種類の映画もある。それは、「理由」の追求が物語の主軸になっている種類(ミステリー)のフィクションだ。「実はこうでしたあああ」がカタルシスなどの重要な機能を持つ(だろうと予感させる)物語だ。「トゥモロー・ワールド」に関して言えば、そんな素振りは映画が始まった瞬間から皆無だ。そして、さっきも言ったように、その「理由の解明」が必要なタイプの物語であるかないか、を人々は多くの場合無意識に判断して映画の見方を切り替える。ああ、これは通り魔の心の闇が浮かび上がってくるような種類の話ではなく、あくまで残された家族の風景を描く話なんだな、と。こういうふうに言葉にすることすらせずに。

もう少しひねった物語になると、この文法を逆手にとって、理由追求型だったものが一転して心の旅になったりして驚く、みたいなつくりにすることもアリだろう。これ難易度高いぞ。

なのに、みんな「子供が生まれなくなった理由」を知りたがり、それがなかったとか言って勝手に失望する。それは全部食ってから渋柿に甘柿じゃないと文句をつけるようなものだ。一口めでわかるでしょ、そんなもん。

と、こんな説教めいたことを書いたのは、この映画に関する多くのレビューを見て、ちょっとぞっとしたからなのだ。映画が面白いかつまんないかなんて、それは個人の自由、いろんな見方があって当然でしょー。ただ、上記のことを問題にしている人の多さ、いわば「フィクションの空気を読めてない」人の多さにぞっとしたのだ(特にMixiのレビューを見ると怖くなる)。

この映画は万人受けするものじゃない、というのはわかっている。だから、たぶんつまんなかった人は他にもやもやした不快で退屈な気分があるのに、それをうまいこと言葉にできずに、「理由の欠如」なんていう本心ではない言葉を書くしかなかったんだ・・・と思いたい。たぶん「宇宙戦争」のときもそうだったんだろう、と。

でも本当だったらどうしよう。ぼくはそれが怖い。